【第二十六話】作戦成功! 命運を分かつ白き雨……?!



 ジェシアの血を使い、全ての魔女の魔力消失を目論む城。

 その野望を阻止することを決意した近藤たちと、それに協力することを誓ったラッド・ネアとユージ。

 五人は各々三手に別れて作戦に取りかかった。

 なんとかジェシアを奪還したは良いものの、女王・ジュベルに阻まれ、近藤は、致命傷を負ってしまう。

 残りわずかだと思われていた近藤の命は、アピトの治癒魔法によってなんとか繋ぎ止められた。

 ジュベルを倒す鍵となるのは、“魔法を際限なく使う方法”。

 そしてついに、その原理を理解した近藤。

 魔法を際限なく使えるようにするために、近藤とアピトは城へ向かう。

 一方、ファシスタたちはアピトの家に残りその時を待っていた。



 ここはユギルの屋敷。


 左右の壁に聳え立つ巨大な本棚に、天井からぶら下がる大小様々なガラス製のシャンデリア。

 真っ赤な薔薇が生けられたロココ調のフラワースタンドや、レースの刺繍があしらわれたソファとクッションが部屋を華やかに彩っている。


 いつもと変わらぬユギルの屋敷。だけれど、どこか違和感がある。


 そうだ。いつもは忙しく本の整理をしているメイドたちが、今日は部屋の真ん中に整列しているのだ。


 メイドたちの前には、タカハシに抱きかかえられたユギルが立っている。

 その光景からは、なにか集会のような物々しさを感じるかもしれない。


 まぁ、その感想もあながち間違いとも言いきれない。

 ユギルは大きな事件に関わった後、必ず皆を集め、事のあらましを話す。

 集会といえる程のものではない小さな報告会だが、そう呼んだところで差し支えはないだろう。


 ユギルは全員居ることを確認すると口を開いた。


「まず、お礼を言うよ。お前たちのお陰で、今回の件は一先ず解決した」


 集会の始まりを意味する定型文。

 メイドたちはいつものように黙ってその言葉に耳を傾けた。


 ユギルも淡々と事件の全容を語る。

 魔法生物の発見からジェシアの捜索、城の騎士の尾行や、クイエラでの戦争と、事件の終わり。


 そして、新たな事件が発生したこと。その対応も。

 ジェシアの血液の力や、近藤の活躍についても少し話した。


「そろそろ世界が大きく変わる」


 演説も後半に差し掛かった頃、ユギルがそんなことを言った。

 淡々とした口調だったが、メイドたちの動揺を誘うには充分だった。

 皆顔を見合わせ、不思議そうに眉を寄せる。


 しかし、不思議とどういうことだと騒ぐ者は居なかった。

 ここの者たちも、長いことこの屋敷で暮らしていた。そう言える雰囲気ではないことを感じ取ったのだろう。

 皆の真っ直ぐな視線が、ユギルに集まる。


「この時代の役目はもう終わり。この世界は変化の時を迎えたの」


 ユギルはその視線に応えるように小さく笑った。


「そしてユギルは、変化した世界には受け入れて貰えない」


 照明のせいだけではないだろう。ユギルの表情は、どこか寂しそうなものだった。


「新しい世界では、ユギルは魔法を使えない」


 広間は相変わらず、静寂に包まれていた。

 メイドたちが息を吐く音すら、聞こえない。

 それくらい静かであった。

 彼らはユギルを見つめることしか出来ない。

 見つめることでなにか解決するわけではないと分かっていても、それ以外になにも出来ないのだ。


「ユギルはこれ以上君たちを守れない」


 先に目を反らしたのはユギルであった。

 あの瞳に映る自分を見たくなかった。


「……だけど、大丈夫。変化した世界は、お前たちにとってきっと……生きやすい世界だから」


 ユギルは続きを言わなかったが、その先を想像することは容易い。

 つまり、メイドたちはもうユギルの屋敷に居る必要がない、ということだ。


 いや、むしろ外に出た方が良いということか。

 ユギルは『以上』と言うと無理やり話を終わらせた。


「君たちは自室に戻って、指示があるまで好きに過ごして。本棚の整理は今日限りだ」


 口の端を固く噛みつけたユギルの代わりに、タカハシが今後の指示を告げた。

 そこでようやく、メイドたちは実感した。


 本当にお別れなのだと。


 彼らも簡単に受け入れられるはずがない。少なからず抵抗はした。


 今まで助けてくれた分、お礼がしたいと。


 守られてばかりだったのだから、今度は自分たちが守ると。


 しかし、ユギルが首を縦に振ることはなかった。


 結局、メイドたちはタカハシの指示に従った。いや、正確には、従うしかなかった。


 ユギルが泣き出しそうなのに気付いたのだ。それに気付いた者からぽつりぽつりと部屋に戻り、とうとう広間にはユギルとタカハシの二人だけが残された。


 何度も振り返りながら出ていく者、うつむいたまま出ていく者、お辞儀をしてから出ていく者……。


 ただ部屋に戻る姿ですら、個性を感じてしまうほど長く側にいたのだ。

 そんな大切な子たちが、あんな良い子たちが、もう数日もすると会えなくなってしまう。


「ユギルは皆が居て楽しかったよ」


 堪えきれなくなった涙をタカハシのシャツで拭う。

 タカハシはなにも言わないで、いつものように頭を撫でた。


 メイドたちの居なくなった部屋はとても広く感じる。

 あと数日もすれば、この屋敷のどこを探しても彼らに会えなくなる。


 変化に喜ぶ者の影で、変化に嘆く者も必ず存在する。

 そこには正義も悪者も存在しない。変化に受け入れられるか受け入れられないか、ただそれだけ。


「オキニイリ、逃げるなら今のうちだよ」


 ユギルは声を潜めてそう言った。いっそのこと、聞こえないように。

 もし聞こえなかったら、言ったのに逃げなかったと責めることが出来るから。


「どこへ行きますか?」


 タカハシの質問に、ユギルは少し戸惑った。しばらく考えて、その意味を理解した。


「ユギルは、ここが良い」


「じゃあ、僕もここに居ましょう」


「……逃げるタイミングなくしちゃったよ」


「良いですよ。心臓を置いて逃げるほど馬鹿じゃないから」


 タカハシがそう言うとユギルは幸せそうに頷いた。



 アピトたちが家を出てから、数時間が経過した。


 外は未だに静寂を守ったままだ。

 もう城に着いたのか、城に着く前になにかあったのか。

 状況を知る手段がないファシスタたちは二人の無事をただ祈ることしか出来ない。


 少し前にはラッド・ネアも外へ出て行き、部屋のなかにはファシスタとユージだけが残された。


「ラッド・ネアさん、どこに行ったんでしょうか?」


「あァ、反射魔法を使いに行ったンじゃナイ? 今回は範囲が広いし、はやめに張ってるンだヨ」


 ユージにそう言われ、作戦が始まっていることを実感した。

 そうだ。目に見えなくても、作戦は動き出している。

 私は私なりに、出来ることをやらなきゃ。

 ファシスタは気合いを入れ直すように、力強く拳を握った。


 今から数時間前、この部屋で作戦会議が行われた。

 近藤の話したことは現実的ではなく、到底信じられるものではなかった。


『この世界には魔力が溢れている。そして、魔力はその流れをもって魔法を産み出す』


 だが、魔力がこの世界に溢れているせいで、体の中の魔力が外に出ず、ほとんどの魔女が魔法を使うことが出来ない。


 元々圧倒的な魔力を持っているアピトや、体の外の魔力を操れるユギルやラッド・ネアを除いて。


 つまり、悪魔は魔力源ではなく、自分の体の周りの魔力を低下させるための、言わば補助輪のようなものだったのだ。


 もしこれが本当なら、今までの常識が全部否定されてしまう。

 そう思う反面、真実だと確信してしまうほどの力が、彼にはあった。

 それはファシスタだけではない。きっと、ここにいる全員が近藤のことを信じているだろう。


 今、近藤はアピトと共に城に向かっている。


 城の中には男の精を貯蔵するタンクがあるらしい。

 それを壊し、ラッド・ネアの反射魔法を使って、世界にばらまく。

 そうすることで、世界中の魔力が低下し、際限なく魔法が使えるようになるらしい。


 アピトが魔法を際限なく使えるようになれば、女王ジュベルと互角に戦うことが出来る。


「不安になッてきタ?」


 その声に思わずハッとする。

 考え事をしていると、まだ少しだけ不安になってしまう。

 ファシスタはその不安を拭うように首を振った。


「いえ、覚悟は出来ています」


 もう、決めたのだ。

 セーレを、近藤を、信じると。

 信じて、帰りを待つと。そう決めたのだ。


「だから、大丈夫です」


 まだぎこちないが、清々しい笑顔だった。

 そんな笑みも出来るようになったのか。

 ユージは内心ほっとした。


「流石ファシスタちャん、頼りニ……うワ?!」


「きゃっ?!」


 頼りになると、そう続けようとした言葉は音にならずに終わった。

 床を突き破り、ラッド・ネアが現れたのだ。


「……っ!」


 あまりのことに一瞬反応が遅れる。

 ラッド・ネアが床に転がり鈍い音が響くまで、その瞬間まで、状況を理解出来なかった。


「ラッド・ネア!」


「大丈夫……! 来ないで」


 制止する声は、いつもの鋭さがなかった。

 それどころか、どこか苦しそうでもあった。


 ラッド・ネアが、肩で息をしている。


 裾がチグハグなのはいつものことだが、今回は違う。無造作に千切れた結果だ。

 前髪も乱れ、頬にはうっすらと汗が滲んでいる。


 敵襲。


 そうと分かるのに時間はいらなかった。


「やっほ~! 暇だから、来ちゃった」


 この声。

 いつまでも耳の奥に残るような、甘ったるい声。

 聞き覚えがある。

 そりゃそうさ、なくちゃ困るだろうと、切り落とされたはずの両腕がビリビリと痛んだ。


「リドル・シエラルカ……!」


「正解♡」


 ユージの呼び掛けに答えるように、彼女は姿を現した。


 今日も、あの日に負けず劣らずの派手なドレスだ。

 ドレスの下から覗くその足にも、ぱっくり開いたその胸元にも、独特なタトゥが彫られている。


 この女、城の宰相であり、ユージの両腕を奪った魔女、リドル・シエラルカ。


「不意を突かれたわ。狙いは私」


 いや、正確にはラッド・ネアの反射魔法。

 アピトとは戦えないと踏み、ラッド・ネアの所へ来たか。はたまた、別の理由があるのか。


 詳しいことは分からないが、ただ一つだけ分かるとしたら、いつかは戦うことになっていた相手だ。


 ラッド・ネアは、シエラルカの腕を狙っている。

 ラッド・ネアは体を起こすと、彼女と向かい合った。


「どう? 久々に痛い?」


 腹を押さえたままのラッド・ネアにシエラルカが問う。

 その声は、まるで世間話でもしているかのように馴れ馴れしい。


「馬鹿力ね」


 どんな反応も、シエラルカを喜ばせるだけだと知っている。

 だからこそ、自分が一番冷静で居られる言葉を選んだ。


 反射魔法が反射できるのは魔法のみ。物理攻撃は反射出来ない。

 つまり、ラッド・ネアを二階まで飛ばしたのは、小細工なしの筋力である。


「君が軽いんだよ~。いっぱい食べな?」


「ええ、心配感謝するわ」


 まだ互いに指さえ動かしていないというのに、部屋の中は妙な緊張感に包まれていた。

 シエラルカは慎重にラッド・ネアの出方を伺っている。

 多分、ラッド・ネアも同じだろう。


 この隙しかない。


「ねェ、ファシスタちャん」


 ただ呆然と座りつくすファシスタに、ユージが近寄る。


「走れル?」


「え……?」


 一瞬困惑を写したその顔は、すぐにその意味を理解して青くなる。

 ユージは目をそらすことなく、返答を待った。


「……はい」


 震える唇が、腕が、足が、守られることの残酷さを物語っている。

 それでも、彼女は覚悟を決めたのだ。

 ファシスタが立ち上がったのを確認して、ユージも腰を上げる。


「シエラルカ!」


 ユージはそう叫ぶと、シエラルカの後ろへ回り、蹴りを入れた。


 重心がズレる。


 それとほぼ同時に、ラッド・ネアが彼女を組み敷き、その上に股がった。


「走って!」


 ラッド・ネアの声は、どこか余裕がなかった。

 それもそうだろう。

 腕力ではシエラルカの方が上だ。

 シエラルカは体を捻ると、ラッド・ネアの首を掴み投げ飛ばす。


「はやく!」


 空中で体勢を整えながら、ラッド・ネアは叫んだ。

 返事はなかった。


 ただ、弾かれたように走り出した彼女は、泣いていた。

 ユージはその背を見送りながら、ラッド・ネアに声をかける。


「今度は逃がさないでネ」


「ええ、もちろん」


△▼


 ラッド・ネアが指を鳴らせば、花火のような派手な音と共に、シエラルカが屋外へと飛ばされた。

 その後に続いてラッド・ネアが外へ出る。


 戦況はどちらが有利とも言えない。

 魔法攻撃があたらないため、ラッド・ネアに少々の分はあるものの、戦闘慣れしたシエラルカとの戦いが厄介なことには変わりなかった。


 ラッド・ネアは距離をとりつつ、シエラルカはその距離を埋めつつ、互いの隙を狙っている。


 シエラルカは頭が良い。というより、ずる賢い。

 前もってユージの腕を切り落としておいたのも、ラッド・ネアとの戦闘を見据えてのことだろう。


 近距離戦、特に肉弾戦の得意なユージと、遠距離の魔法攻撃を防ぐ反射魔法。

 このバランスを崩すことが、ラッド・ネア攻略の鍵なのだ。


 と言っても、こちらとしては大迷惑な訳で。


 元々、城とは友好的でもないにしろ、敵対していたわけではない。

 つまり、シエラルカがユージを襲ってこなければ、ラッド・ネアも城と敵対することはなかった。


「バカなヤツ」


 そう思わずには居られなかった。

 ユージは壁に開いた穴から二人の様子を覗く。

 未だ防戦一方の戦場。


 変わったのは時間だけか。

 遠くの空はうっすらと白みがかり、そろそろ夜が明けることを示していた。


 このままダラダラと戦えば、ラッド・ネアの体力が底をつくのも時間の問題だ。


 もう少しラッド・ネアが戦闘に集中してくれれば決して勝てない相手ではない。

 だが、ラッド・ネアが戦闘だけに意識を向けることはまずあり得ない。


 その原因は、ユージにある。


 戦闘に集中すれば、ユージに何かあった時、すぐに反応出来ない。

 シエラルカが一人できているとも限らないのだ。

 なんたって、ユージたちには城襲撃の前科がある。軍が動いていても可笑しくなかった。


 普段のユージなら自分の身くらい自分で守れるが、なにせ今は腕がない。心配にもなるだろう。

 手を貸してやるかとその場を離れようとした、その時。


 雨が降り出した。


 雨……?


 いや、違う。

 これは……!


「臭ェ……」


 近藤たちがやったのだ。

 作戦が、成功した。

 濁った白い雨はポツポツと垂れてきたかと思うと本格的に降り始めた。


 作戦が成功したことは喜ばしいことだ。


 喜ばしいことなのだが、状況は最悪な状態へと追い込まれた。


 ラッド・ネアの反射魔法が使えなくなる。


 近藤の話を思い出し、ユージは慌てて外に出た。

 二人はこの雨に気付いているのかいないのか、戦う手を休めない。


 舞い散る火花と絶え間ない魔法の応酬。

 見ているだけで息をするのを忘れてしまいそうだ。


「あ~ぁ、くせぇ」


 先に攻撃の手を緩めたのはシエラルカの方であった。

 シエラルカはラッド・ネアの攻撃を受け流すと、顔についた雨を拭った。


「でも、やっと魔法が使えるね」


 シエラルカは疲れたと言わんばかりに体を伸ばす。


「使えたところで勝機はあるのかしら?」


 減らず口というのはこのことを言うのだろう。

 別に反射魔法だけに頼ってきたわけではない。


 しかし、使える魔法が一つ減ったのだ。

 不利になったのは間違いなくこちら側。

 それでも毅然とした態度を崩さないのは、ラッド・ネアのプライドか。


「じゃあ、こんなのどぉ?」


 シエラルカが指を鳴らすと、その後ろには大量の矢が現れた。

 矢はシエラルカの指先に従い、ラッド・ネアを狙う。


「お粗末な攻撃ね」


 ラッド・ネアは向かってきた矢をいとも簡単に燃やしつくすと、ため息をついた。


 魔法の攻撃も、魔法でもって相殺できる。

 反射魔法がなくなったところで、攻撃が当たるとは限らない。


「じゃあもう一回!」


 その様子を見ていたのかと疑いたくなる台詞。

 シエラルカはまた指を鳴らし矢を産み出す。


「消耗戦なら喜んで」


 ラッド・ネアも先程と同様に炎をまとった。


「ァ」


 しかし、その矢が狙ったのは、ユージ。

 ヤバいと思った時にはもう遅かった。

 矢はラッド・ネアを迂回し、ユージを目指す。


 血飛沫が舞う。


 辺りに響いた悲鳴も、矢が地面を抉る音にかき消され、ただ静かに世界が暗転した。


「ラッド・ネア……!」


「瞬間、移動って……こうするのね」


 ユージの腕の中には無数の矢に貫かれた、ラッド・ネア。

 ユージの代わりに、ラッド・ネアはその身を犠牲にしたのだ。


「うわぁ、痛そ~」


 そう言って笑うシエラルカの姿は、無邪気な少女のようにも見える。


「丁度良いし、ラッド・ネア。昔の話をしようよ」



『走れル?』


『走って!』


『はやく!』


 ファシスタは走った。

 息が切れて、転びそうになっても、ひたすらに足を動かした。


 どのくらい走ってきたのだろう。気が付けば、ファシスタは街に降りていた。

 ここまで来れば、シエラルカの手が伸びてくることはないだろう。


 深いため息と共に胸が痛んだのは、走りすぎたせいだろうか。

 うっすらと白んできた空が夜明けを告げるが、まだ人が出歩く時間ではない。


 このブローレは広すぎる。

 人がいなければ、その広さをより一層感じてしまう。


 それでも寂しがっている暇はなかった。


 ファシスタはもう一度深く息を吐くと、ぐっと顔を上げた。

 まずは、安全な場所に身を隠さなきゃ。


 なにがどうなっても、アピトたちの足を引っ張ってはいけない。

 もう歩くことさえ限界に近いその体をなんとか動かし、身を隠せそうな場所を探した。


 自宅はもう目をつけられてるだろうし、友人を巻き込む訳にはいかない。

 路地裏でやり過ごすしかないと、そう決めた時だった。


「レーベル・ファシスタだな?」


 すぐ後ろから声が聞こえた。

 こんな時間に声をかけてくる人など限られている。


 騎士だ。


 騎士に、見つかった。

 嫌な汗が頬を伝う。

 心臓は壊れてしまいそうなほど痛く鳴って、唾を飲み込むと喉が唸った。


 それでも、ファシスタは出来る限り冷静を装いその声に応じた。


「……カラリマ指揮官様。随分おはやいのですね」


 銀色の髪に紫の瞳。

 このブローレに住んでいるのであれば嫌でも覚えてしまう。


 指揮官・ロート・カラリマ。

 その後ろには、いつか見た黒髪の少年、小俣の姿もあった。


「おや。私のことを知っていたか」


 カラリマは口先だけ驚いた体を装い、薄く笑った。

 もちろんカラリマも、本気で驚いているわけではないだろう。


 カラリマは指揮官という立場からか、アピトの家によく押し掛けてくる。

 そのため、ファシスタとは顔をあわせることも多かった。

 話したことはないにせよ、認知していることに驚く理由はない。


 だからこれは、ただのパフォーマンスなのだ。

 それも、とびきり意地悪な。


 ファシスタは唇を軽く噛むと、笑顔を作った。


「なにかご用ですか?」


「貴様が一番分かってるだろう」


 とぼけた態度が気に障ったのかも知れない。

 カラリマは軽く眉を潜めると、吐き捨てるようにそう言った。


「私が?」


 瞬きを二度三度繰り返し、驚いたと言わんばかりに首をかしげた。

 しかし、その表情とは反対に、ファシスタの声は震えていた。

 そんな様子に、カラリマの眉間のしわはさらに深くなる。


「こんなところでなにをしてるんだ?」


「散歩です」


 そう答えると、睨み付けるような視線がファシスタを貫いた。

 体は自然と震え、泣きたくもないのに目が潤む。

 それでも、笑顔だけは崩さなかった。

 それは半ば意地でもある。


「会話にならんか」


 髪を無造作に捕まれ、引き寄せられる。

 咄嗟のことに、全身の力が入るが、これ程度の抵抗など、騎士の前には無意味に等しいものであった。

 前髪が上に引っ張られ、顔は自ずと上を向く。


「な、んですか?」


 頭に血が回らない。

 脳の中央が冷えていくのが分かった。

 意識は、じりじりとした額の痛みに奪われる。


「死ぬのは、怖いだろう?」


 耳の奥に響く低い声に、背筋が粟立つ。

 怖い。

 怖いに、決まってる。

 堪えきれなくなった涙が頬を伝って地面に落ちた。

 もう、笑顔を作るのも限界だった。


「離して!」


 ファシスタは叫んだ。

 叫ぶのと同時に、鎧を殴った。

 じんっと腕全体が痺れる。


 騎士の鎧は素手でどうにか出来るものではない。ましてや、喧嘩もしたことのない細腕では、なおさら。


「大人しくしていれば命までは取ることもない。まぁ、私も手ぶらで帰るわけにもいかんのでね」


 カラリマは冷静に、だけれどとても楽しげにそう告げた。


「いや! 離して!」


 ファシスタはまた悲鳴をあげると、それはもう、人が変わってしまったかのように鎧を叩いた。


「誰か! 助けて!」


 普段を知らないカラリマでさえ、驚くほどの声量で叫び続ける。


「聞き分けが悪い娘だな」


 飽きれとも取れる声。

 だが、どう言われようとどうでも良かった。


 ここで捕まれば、ファシスタは囮になるだろう。

 ファシスタの命と引き換えに、アピトの命が奪われる。


 これだけは絶対に避けなければならないことだった。

 だから、叫び声とこの音で、人が出てくるのを待った。


 ファシスタは、アピトやユギルのように、ブローレから隔絶されているわけではない。

 ブローレ内に住む、ごくごく平凡な魔女の一人だ。


 そんな一般市民であるファシスタを、城が無理やり連行したとなれば、城の体面が悪くなるのは目に見えてる。


 せめて、逃げることが出来なくても、城に不信感を抱く人が少しでも出てくれれば……!

 この意図がバレぬよう、抵抗するふりを装ってファシスタは叫ぶ。


「痛い! 助けて!」


 その思惑通り、カーテンの隙間から覗く視線がぽつりぽつりと増えていく。


 城の恐怖は、絶対的過ぎる。

 市民の眼前でどんな悪行を行おうと、それを善行と言えるだけの力が、城にはある。


 だから、多くは望まない。

 せめて、セアさんの処刑の時のような間違いが起こらないように。


 ふっと感覚が遠退く。

 頭を引っ張られ過ぎて、血が回らなくなってしまったらしい。


 ここまでか。


 これで、良かったんだ。


 私に出来るせめてもの抵抗。

 ほんとに小さな小さな抵抗で、ともすればなんの役にも立たないかもしれない。

 でも、私にはこれしか出来ないから。

 出来ることをするしかないから。

 そう思っても、なぜか涙は止まらなかった。


 悔しい。


 こんなことしか出来ないことも、こんな奴らに負けてしまう非力さも。

 悔しい。

 悔しいよ。

ぽたりと、腕になにかが伝う。


 これは自分の涙ではないと気付くのにしばらく時間がかかった。


 これは……男性の、精?


 そう気付いた時には歓喜に震えていた。


 セーレだ!


 セーレが成功させたのだ!


 咄嗟にそう思った。

 いや、実際それしかあり得ないのだ。


 白い雨は次第に地面を濡らしていく。

 作戦の成功よりもなによりも、アピトが無事であることが嬉しかった。


 なにもかも忘れてしまうくらいの喜び、それと同時に、頭は落ち着きを取り戻した。


 今だ。


 ファシスタはありったけの力を込めて、カラリマの胸に体当たりをする。

 雨に気を取られていたカラリマは、その衝撃を直に受けることになる。


 体勢が崩れ、手が離れる。

 髪が数本抜けたが、その痛みも気にならなかった。

 ファシスタはふらつく足を支えながら距離を取る。


「こざかしいな」


 ガシャリと金属が擦れる音がして、舌打ちと共に腕が伸びてくる。

 避けようにも、力の差は歴然としていた。

 カラリマはいとも簡単にファシスタの腕を掴むと、力任せに捻りあげた。


「いっ!」


 腕が軋む。

 それでも、諦めきれずに腕を振ったその時、視界の端に何かが映った。

 不思議に思ったのはファシスタだけではない。


「なんのつもりだ? ミル?」


 怒りよりも純粋な疑問が先に出た。そんな声だった。

 ミル、そう呼ばれた青年は、カラリマの腕を掴んでいた。


「助けて、くれた?」


 この状況をどう認識すれば良いのか、ファシスタには分からなかった。


「……すみません」


 小俣は弱々しく謝った。

 その顔は、いつかの公園で会ったときよりさらに暗く曇っていた。

 しかし、目は真っ直ぐファシスタを見つめ、腕は離す素振りすら見せない。


「死ぬか?」


 その声には、明確な殺意が込められていた。

 じりついた空気に気圧され、息を飲む。

 その言葉の意味を理解する間もなく、小俣が壁に向かって投げ飛ばされた。


「う、そ……!」


 思わず声が漏れていた。

小俣は壁にぶつかり、苦しそうな呻き声と共に、血を吐き出した。


 あまりの衝撃に、足の力が抜ける。

 腕が掴まれているというのに、腰が抜けて、立っていることが出来ない。


「人の心配をしている場合か?」


 震えるばかりのファシスタに、影が落ちる。

 腕を引かれ、無理に立ち上がらせられる。


 逃げることも、立ち向かうことも出来ない。

 これから起こることを想像し、目を瞑ることしか出来なかった。


 なにも考えられなかった。

 漠然とした絶望が頭を支配したとき、ふと、聞き覚えのある声がした。


「やぁ、指揮官ともあろう方が、随分乱暴だね」


 時間が止まってしまったような静かさ。

 信じられない。

 その感想は、その姿を見ても変わらなかった。


「……ジェシア」


「どうも。お元気そうで」


 カラリマの声に笑顔で応じる彼は、城に狙われている張本人であった。

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