青姫の婚約

 青い魔力の光が鎮まるとそこはずいぶん懐かしい、ルジェーラ城と名を改めた翼公の居城の大樹がある中庭だった。

 しかし何故かいまは白く染まっている。何故だろうと見回して、驚きに息を飲んだのは、大小の視線の持ち主がコーディリアをじっと見つめていたからだ。

「私たちに挨拶をしようと集まってくれていたんだ」

 アルグフェオスが指し示す者たち――大きさも種類も異なる多数の小鳥たちが盛んに鳴き交わし、猛禽は鋭い目をして、夜行性の鳥たちは眠たげに、水鳥たちは翼をはためかせ、異国の空を飛ぶものたちも初めて聞くような美しい声を聞かせてくれる。

「君を歓迎している」

 不思議な光景に魅入られるコーディリアを喜ぶようにアルグフェオスは嬉しげに囁いた。

 一頻り祝福して満足したのだろうか、鳥たちは一羽二羽と翼を広げ、そして一斉に飛び立った。

「っあ……!?」

 鳥たちの無数の羽ばたきが風を生むと、大地を染める白が舞い上がる。

 雪ではない、羽でもないそれは、花だった。それもいつかのように祈りの木に咲く花がこぼれ落ちただけではない。大地から芽吹いた花々が庭を埋め尽くしているのだ。咲いて、散って、また咲いて、風に吹かれて空を覆い尽くす。

 そのときコーディリアはすぐ近くで羽ばたきを聞いた。

(……え?)

 花と光が舞い踊る空が眩しくて目を細めた瞬間、青い翼が見えた。

 驚いて瞬きを繰り返すが、青い鳥も、視界いっぱいの大きな翼を持つようなものもいない。思わず目を擦っていると「コーディリア?」と不思議そうに呼ばれた。青い髪と瞳の愛しい人が視線を戻すコーディリアに優しく微笑みかける。

「どうかしたのかい? ずいぶん驚いているようだけれど」

「いま、青い翼の」

 だがそこで言葉を切り、ゆるゆると首を振った。

 青は、特別な色。神鳥の祝福。それを持つコーディリアは、自分でもそうと知らないうちにずっと守られていたのだと気付いたからだ。

 その翼の持ち主が旅立ったいま、すべてが終わり、新しく始まったのだった。

 視線を交わして微笑み合っていると、離れたところでそれを見守っていたレアスとカリトーが控えめに主人を呼んだ。同時に少女の声と人の気配が近付いてくる。

「あるじ様! コーディリア様!」

 アルグフェオスの羽子、レアスの片割れのアエルだった。後ろには彼女と同じく城を支える仕人たちがいて、そして見知ったロジエの住民たち、雑貨店のノーレン、鍛冶屋のコッヘルなど魔女と呼ばれた二人と交流のあった人々や、ヨハンとエリオとフィリスの姿もあった。

「アデル!」

 ヨハンが泣き出す寸前の怒鳴り声で呼び、途端にエリオとフィリスに何事が注意されて黙り込んだかと思うと、再び大きく叫んだ。

「――青姫様!」

 子どもたちが照れた顔で笑う。ロジエの人々が声を上げて笑う。城の人々の温かい眼差しで見守り、アエルが泣き笑い、レアスは微笑み、カリトーは満足げに笑みを浮かべている。別れてきた両親やイオン、使用人たちもいつかロジエの住民たちのように城を訪れてくれ、会える日が来るはずだ。

 だから白い花が舞う空の下のいまこの瞬間だけは悲しみは一つもない。

 空を仰ぎ、風を感じる。白い花の香りがしていた。魔力が巡り、雨が大地に降り注ぐように満ちていく。

 コーディリアがこれからアルグフェオスとともに守っていく場所だ。

「アルグス。私、強くなるわ。制約に縛められるあなたの望みを叶えるために。あなたが守りたいと思うものを、掟に邪魔されず守れるように」

 私自身の選択にすべてが委ねられるというのなら、何を選び、たとえ犠牲を払って消えない傷を負うことになっても後悔しないように。本当の強さを持たなければ誰かを愛することは困難だと、もう知っているから。

 目を見張り、やがて眩しげにしていたアルグフェオスが囁く。

「コーディリア。愛しき番の君に神鳥の祝福を」

 そうして深い口付けを受けた。

 遠くで見守る人々の「きゃあっ」と弾んだ声、慌てた気配を感じながらコーディリアは顔を赤く染めて息継ぎの間で必死に訴える。

「だ……だめ……っ……」

「だめ。本当に?」

 からかい混じりに囁くアルグフェオスはなおもコーディリアの目尻に口付けを落とす。そうやってびくびく震える様を楽しんでいるかのようだ。壊れそうな心臓を抱えて、コーディリアは「あの、あのね」と彼の裾を握り締めた。

「この期に及んで、と思われても仕方がないんだけれど、私、その……」

 少々不穏な気配を感じたらしいアルグフェオスが「何かあるのかい?」と尋ねる。良心の呵責に苛まれながらコーディリアはますます彼の裾をきゅっと握った。

「あの、私、幼くして婚約したの。それからずっと婚約中で……」

「うん」

 それがどうしたのだろうと彼には珍しく先が見えていないような顔をしている。

「婚約しているといっても私はその、飾り、みたいなもので、公務の参加が求められる以外は滅多に同じ時間を過ごすこともなかったし、呼び出されても用事を言いつけられるとか仕事を代わるとか、他の女性のように密になることはまったく一度もなくて」

「コーディリア、落ち着いて。何を恐れているのかはわからないが、婚約している間に何か嫌なことがあったんだね?」

「嫌なことがあった、というか…………何もなかったの…………」

 要領を得ない言い方だと自覚があったので、コーディリアはもう一度、はっきりと、自らの恥を告白した。

「『何もなかった』の! 婚約者らしいやり取りも、彼が愛人と呼ばれる女性たちとしていたようなことは、何も。だから婚約している、思いを通じ合わせた二人がどういう会話をして、思いを伝えたり触れ合ったりするのか、全然わからなくて……っきゃぁ!?」

 羞恥に悶えるコーディリアを乱暴に引き寄せたアルグフェオスは口付けの雨を降り注がせて呼吸を奪った。頭は真っ白、意識までが赤く染まるようで、もう彼がどこに触れているのかわからず覚えていられない。嵐のような愛を注がれて翻弄されるばかりのコーディリアに、どこか陶酔した様子でアルグフェオスが言った。

「……いまだけは愚かだった彼に感謝する」

「え……何……?」

 やっと心臓が息を吹き返したように激しく鼓動を鳴らし呆然としているコーディリアにアルグフェオスの声は聞こえない。ただ満足そうにしているのがわかるだけ。

 それを彼は「赤く色づいて、青姫というより淡紅姫だね」と笑い、さらに熱で染まった頬に唇を寄せた。

「大丈夫、心配はいらない。わからないというなら教えるし、君の気持ちを素直に言葉や行動で表してくれればいい。私もそうするから」

「それなら……よかった。ありがとう」

 コーディリアははにかんで、アルグフェオスの両手に手を添えると、思いのままに、自らも唇を寄せた。

 愛を伝えたい。そう思って行動してみると想像していたより簡単で、今度は優しい口付けを返してくれる彼もそう思って触れてくれるのだと理解できた。

 もう二度と愛を求めることはないと思っていた。愛されたいと思わない、求めてはいけない、きっと傷付くと怯えていた。いまも胸の中には震える小さな鳥がいる。けれど開かれた世界、出会った人、巡り合える愛に励まされながら少しずつ翼を広げてそのときを待っている。

(翼公の番として私にできることはきっと多くないけれど、まずは庭を。この場所を作るところから始めよう)

 いつかアルグフェオスに、この中庭をどんな風景にしたいか考えておいてほしいと言われていて、結局答えが出せず何もできないままだったけれど、いまコーディリアの胸にあるのはこの瞬間を忘れないでいられる場所にしたいということだった。

 空を望み、花が咲き、鳥たちが集う、この瞬間を思い出せるような美しい庭にしたい。

 いつどこへ、どこまでも行こうともここが私の帰る場所。そしてこの庭を訪れる誰かのための止まり木。そんな場所に。

 力強い風が花をさらい、人々の驚きと歓声を運んでいく。

 見えない大いなる翼が巻き起こしたようだと思った。

「コーディリア」

 装束は翼、銀の髪を風になびかせ青い瞳で世界を望み、まるで白い鳥になったかのように。

「アルグス」

 ルジェーラ翼公アルグフェオスの番の君、やがて『青姫』の名で親しまれるようになるコーディリアは微笑みとともに差し出されたアルグフェオスの手を取る。

「愛しているわ」

 震える胸の鳥が、いま、飛び立った。

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青姫の婚約 破談と逃亡からはじまる求愛 瀬川月菜 @moond

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