愛の孵化

 顎に添えられた手、指が、癒えたばかりの唇の端に触れる。

 そうしてアルグフェオスは触れなかったところを一つも残さないかのように一際強くコーディリアを引き寄せ、慈愛に満ちた青い眼差しで包み込んだ。

 小さく縮こまっていた喘ぐ胸に息が吹き込まれる。光が、清浄な風が、包み込むような幸福感をもたらす。青い瞳は恐ろしいくらいに綺麗で、魅入られてしまう。

「愛している、コーディリア。私の番いの翼は、君だ」

 愛している。

 誰かを慕わしく想うこと、幸いを願い、並び立つ自分が微笑む光景を想像すること、悲嘆に暮れる夜に、希望を求める朝に、ひとりではないと思えること。

 愛している。愛を告げる言葉。

 物心つかないうちに婚約した相手からは一度たりとて与えられなかった。自らも相手に感じたことがなかった。

 けれど血の繋がりのない、これからともに生きる片割れから告げられることを心のどこかで待っていた。

 待っていて、絶対に叶わないと踏みにじられた。

 愛されたいなんて思わない。峻険な山々を望む北の地で自由な翼を得てその思いを新たにした。もう誰かを好きになることはない。恋はしない。

 愛してほしいなんて、絶対に言わない。

「……っ、ぁ……」

 コーディリア、と愛しさを告げる声。

「笑顔が見たい、コーディリア。この世界のあらゆるものに脅かされないでいる君の、心からの笑顔を」

 翼のはためく音を聞いた。

 大きく力強い青の羽翼に抱かれながらコーディリアは泣き濡れる顔を両手で覆い、喘ぐように言った。

「……あ、……ぁ……――」

 愛している。

 愛している。

 愛しているの。愛したいと思ったの。

 あなたを。

「ある、ぐ……アルグ、……ス……」

「コーディリア」

「愛して、愛しているの。私も。わた、し、も」

 流れる涙を拭い、嗚咽を押し込めれずにしゃくり上げ、肩を縮めて泣く。

 いまになって幼子のように泣くことすら上手くできないのだと知った。不器用に固く竦めた肩はこの一年で痩せて骨ばっていたけれど、彼はそれを温かい手で撫で、再びコーディリアを抱き寄せる。

 誰かの腕の中で泣くことがこんなにも幸福なことだったなんて。みっともなくしがみついていいと思える安らぎがあるなんて。

 コーディリアが大きく嗚咽しては落ち着くことを繰り返す間、アルグフェオスはずっと優しく触れてくれていた。頭を撫で下ろし、髪を撫で、背中を支えてこめかみに口付ける。震える手は冷える前に包み込まれ重ね合わされていた。

 コーディリアがやっと涙声ながらも言葉を紡げるようになった頃には、だいぶ日が傾いてしまっていた。

 しっかり涙を拭い、泣き腫らした目をそろりと上げると青い瞳にぶつかって慌てて俯く。

「……ごめん、なさい。泣くばかりで大事な時間を無駄にしてしまって。そろそろ戻ったほうがいいわよね」

「泣くのも大事な時間だよ。向こうは心配いらない。何かあれば知らせが来るから、滞りなく進んでいるんだろう」

 アルグフェオスが涙の名残でふやけたコーディリアの頬に触れる。

「――状況が落ち着くまでもう少しかかるだろう。君も知りたいことがあるだろうし、家族や友人たちも話がしたいはずだ。後日ちゃんとした場を設ける。それまで身体を休めながら今後のことを考えてほしい」

 今後、と呟く。

 次が、続きが、未来があるのだ。

「……ロジエに……ルジェーラに行くんじゃないの?」

「行きたいと思ってくれるなら。だが君の気持ちの整理の方が大事だから、無理はしなくていい」

 不安そうな物言いになったことを恥じて俯くコーディリアを宥める声はどこまでも真摯だ。弱々しさを笑う気配は微塵もない。

「側仕えに留まるのならともかく、神鳥の一族の番に迎えられると世俗の縁は切らなければならない。『アルヴァ王国民』であり『エルジュヴィタ伯爵令嬢』であることを放棄する、その前にやり残したことや心残りがないように。あるいは私と番うことを再考してほしい」

「いまさら、そんなこと」

 小さな抗議を漏らしたコーディリアの耳元に彼のくすりと妖艶に笑う声。

「まあ、嫌だと言ってもさらっていくが」

 そういう搦手は得意だよ、と言う。まごうことなき真実を身を以て思い知ったからコーディリアは真っ赤になって呼吸を忘れかけた。

 しかしこの日コーディリアに降りかかった運命という大嵐は、身体を痛めつけ、感情を激しく上下に揺さぶっていた。幸福感を伴った羞恥と戸惑いと混乱が決定打となり、ふうっと意識が遠のいて膝が崩れる。咄嗟にしがみつき、彼に支えられていなければひっくり返っていただろう。

「すまない、無理をさせた。そろそろ部屋に行って休もう」

「大丈夫よ、このくらい……こんな状況で休んでいられないわ」

 恐らく城内は制圧されただろうが、国内には王家の失墜を望んでいる貴族たちが多数いる。その不届き者たちが何か仕掛けてこないとも限らない。マリスのように民を人質に取ったり、他国に通じてこの国を蹂躙させようとしたりと、危険な可能性に心当たりがありすぎる。

 だがアルグフェオスはため息をついて、無表情に呟いたコーディリアをひょいっと軽く担ぎ上げた。

「っ!? アル、」

「コーディリア、部屋に行って休息を取りなさい。全身を清め、食事をして、寝台で横になるように。日が昇るまで部屋から出て来てはいけない……ということを翼公の権限をもって片割れの資格を有する君に命じてもいいが、どうする?」

 高く抱えられた場所でコーディリアは再び熱に染まった顔を伏せて悔しさに歯噛みした。

「……ずるい……」

「うん。そして君は強情で意地っ張りだ」

 当たり前のように言ってコーディリアを抱えていく。魔法で転移すればいいのに敢えてそうしたのは城内の人間に見せつけたかったからだろう。この城におけるコーディリアの立場が以前とはまったく異なり、軽々しく扱おうものならどうなるか。

 連れてこられた賓客用の棟は見張りもいないのに不思議と他に比べて雰囲気が穏やかだった。並ぶ窓から差し込む光、濃色の絨毯のどこか光るような青、誰かの訪れを歓迎しようと閉ざされて待っている部屋の扉たち。頻繁に立ち入ったわけではないけれど、こんな場所だったろうかと思う。こんな、美しい、明るい場所だっただろうか。

「あ」

 その声の主が誰か思い当たる前に心臓の方が勝手に反応していた。

 アルグフェオスが身体の向きを変えると、コーディリアの胸の奥から震えるようにその名がこぼれ落ちた。

「イオン」

 最も近しい侍女であり友であった少女が、そこにいた。

「は、い……はいっ、リア様……!」

 ぼろぼろと涙を溢れさせた顔で、一生懸命に笑うイオンにコーディリアも泣き笑う。

 もう一度会おうときっと叶わない約束をした。けれどいま、奇跡がそれを覆した。

 アルグフェオスは抱えていたコーディリアを下ろすと、目元に口付けてからイオンに言った。

「彼女に休息を取らせてほしい。強がっているがかなり疲弊している」

「かしこまりました。お休みいただけるまでお部屋をお出にならないよう、お願い申し上げておきます」

「ちょ、ちょっと、イオン……」

 アルグフェオスの命令は回避したのにイオンが本人を前にそんなことを言う。お願いも何もない、絶対に休んでいただきますという涙の残る笑顔にコーディリアはうっとなり、どう足掻いても無駄とついに諦めて悄然と肩を落とした。

「……お言葉に甘えて休ませていただきます……」

「そうしてくれ。何かあればその辺りの鳥に言ってくれれば私に伝わる」

 アルグフェオスはコーディリアのまだ指輪のない左の指に唇を落とした。

「神鳥が、……私が、君の夢をも守ると約束する。おやすみ、コーディリア。次に目が覚めたとき、きっとまた世界は善くなっているから」

 するりと離れる熱が名残惜しかった。

 思わず追いかけそうになったのにアルグフェオスが気付き、ちょっと笑った。多分ものすごく心細そうな顔をしていたのだと思い当たったコーディリアは赤い顔で唇を結ぶ。

(もうだめ。全然、取り繕えない)

 戻って来た彼に両手を取られて言い聞かせられる様は聞き分けのない幼子のようだと自分でも思う。

「時間を見つけて様子を見に来るよ。もしそのとき無理をしているようなら、わかっているね?」

「……はい」

 療養中の彼の厳しさはよく知っている。言いつけを破れば前回の比でないくらい、しっかり休まされるはずだ。

 コーディリアの前髪を掻き上げて額に口付けを落としたアルグフェオスは、今度こそ去っていった。それも魔法で転移するという徹底ぶりだった。

 彼の姿がなくなった途端、凄まじい寂寥感に襲われる。足元がまるで崩れていくみたいだ。

「そのようなお顔をなさらずとも、名残惜しいのは翼公様も同じでいらっしゃるようですから、必ずお顔を見に来てくださいますわ」

 コーディリアの肩にどこからともなく羽織りものをかけて、侍女が涙の残る顔でくすくす笑っている。

「思い切るために魔法をお使いになったのですわ。そうやって立ち去らないとリア様のお側にいたくなってしまうから」

「そう……なの、かしら……?」

「ええ! 断言いたします。さあお部屋に参りましょう。まずは体力を取り戻さなければ。伯爵様も奥様も、みんなみんなリア様とお話ししたくてたまらないのですから、目が覚めたら面会希望者が列をなしているはずですわ」

「私も話したいことや聞きたいことがたくさんあるわ。その最初はあなたよ、イオン」

 肩を抱く手に手を重ねながら、コーディリアは目を見張る友に笑いかける。

 イオンは再び込み上げた、けれど優しい涙を一粒落とした満面の笑みで「はい! もちろんです」と答え、コーディリアに寄り添いながら手を引いてくれた。

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