そして翼は舞い降りる

「そうか。ではその審判も覆さねばならないな」

「……は?」と間抜けな顔を晒すマリスにアルグフェオスの優雅な微笑みが突きつけられた。

「コーディリア・エルジュヴィタはすでに私の庇護下にある。私の指輪を有する彼女は伴侶となり得る資格を持つ女性であり、何人たりともその自由と権利を侵してはならない。すなわち翼公の身内への暴行、これが四つ目の罪だ」

 次の瞬間、コーディリアの縛めが解けた。

 突然すぎて手を突く間もなかったが、倒れ込まずに済んだのはアルグフェオスの魔法が支えてくれたからだ。そのまま不思議な力でふわりと持ち上げられ、久しぶりに自分の両足で地面を踏む。

 けれど足元がふわふわして頼りない。現実味がない。これは夢なのではないか。死に至る直前に神鳥が見せた幸福な幻では。

「コーディリア」

 そんなコーディリアにアルグフェオスが右手を差し出した。

 それを見た途端、震えるような感動と愛おしさが涙になった。

 この手を取りたい、けれど叶わない、そう思って思いを秘めたまま最期を迎えるのだと思っていた。悔しくはあるけれど仕方がない、自分が始めたことを終わらせる責任がある。背中を踏まれて髪を掴まれても耐えて、耐えて、言うべきことを訴え、耐えて、耐えて、人生が終わる。

 けれど、助けに来てくれた。コーディリアが愛する人たちとともに、誰よりも愛おしい彼が、神鳥のごとき力で悲しみを吹き飛ばしてくれた。

 先触れ役を担うレアスが目を細めている。護衛のカリトーが笑っている。ウルスラが片頬を上げ、両親は涙を拭いながら、使用人たちは帽子を揉みしだき、着慣れない一張羅に落ち着かなそうにしながら、一生懸命に髪を結って威厳を出して、各々勇気を振り絞ってここに立ち、見守ってくれている。

 一歩、進んだ。

 頼りない足取りで踏み出したこれが新しい『始まり』。

 そして駆けた。コーディリアはアルグフェオスの手を取り、その腕に抱かれてやっと泣くことができた。

「遅くなって本当にすまない。徹底的に追い詰めるための準備に時間がかかってしまった」

 コーディリアだけに聞かせる囁き声に首を振る。

 しっかりとコーディリアを抱いたアルグフェオスは改めて翼公として告げる。

「翼公の伴侶の資格を得るコーディリア・エルジュヴィタへの加害行為は、翼公への叛意と同義。よって前言を撤回し、政が改まるまでアルヴァ王国はアレクオルニスの預かりとする」

 翼公と神殿島による内政干渉の宣言。

 それは実質王家の終わりを意味した。保身を図る者たちが一斉に騒ぎ出す。

「そんな!」

「王は、貴族の立場はどうなる!?」

「国王の退位は求めない。代わりに私の代理人を助言者として置くことを命じる」

「聖職者が国政に関わるのか? 素人だぞ、国がめちゃくちゃになる!」

「その心配は無用だ。離れていた時期はあるが、この国の王族の教育を受けた、国政の経験者を呼んでいる」

 不満の声に明瞭な答えを返された者たちは口をつぐみ、こそこそと後方へ身を潜めていく。

(教育を受けた、経験者……?)

 それは王族と言わないだろうか、と考えたコーディリアの視界に、その人は優雅な白鳥のような足取りでやってくる。

 たっぷりとした白い髪を結い上げ、慎ましい青の宝石の耳飾りを着けて、大きく切り替える襟以外は装飾ひとつない白いドレスに身を包んで、すれ違い様、コーディリアににっこりと笑いかけた。

「グウェン」

 ロジエの魔女の片割れの名を、コーディリアは呆然と呼んだ。

 だが驚きを同じくする者が他にもいた。誰あろう、ここに至って沈黙を続けていた国王その人だ。

 玉座から腰を浮かし、虚無の瞳に驚愕を浮かべて階下の白い魔女を凝視している。肘掛を掴む手は震え、ぎしぎしと音を立てていた。

「覚えているようで何よりだ。グウェン・ヴァレンティナ・アルヴァ王女。アルヴァ国王、あなたの姉君だ」

「王女!?」

 アルグフェオスの紹介を聞いて絶叫しかけたコーディリアに、グウェンはにっこりしたまま指を立て「後でね」と囁く。装いも立ち姿もまったく違うのに、そんな仕草はともに暮らした彼女と変わるところがない。だが玉座を目指した一声に本来の身分ははっきりと表れていた。

「――お久しぶり。お元気? わたくしはこの通り、運良くお母様とともに追っ手から逃げ切って健やかに歳を重ねてよ」

「……グウェン…………――姉、上……」

 強い魔力を有する者が王位を継ぐ慣習があるアルヴァ王国だ。国王が王妃以外の魔力持ちの女性に子どもを産ませることは過去でも行われていて、王位継承争いで内乱も起こっている。近年そのような出来事がなかったのは、魔力量を比較され、弱いと判断された王族は恐らく秘密裏に命を奪われてきたからだ。

 だが彼女は逃げおおせた。逃げて、王宮と関わりのないところでロジエの魔女として生きていたのだ。

「いまさら謝罪もないでしょうし、わたくしは年寄りで時間もないことだから手短に済ませるわね」

 微笑むグウェンの声が響く。誰もが呆然と、止めることもできずそれを聞く。

「あの日からあなたがしてきたこと、その過ちを正すときが来たわ。翼公の仰るように玉座を明け渡せとは言いません。けれどあなたや王家に連なる者たちが有する特権は速やかに手放してもらいます。それに与している貴族も同じく。すべてを平らに均し、新しく始めるのだと承知してちょうだい」

 そこまで言ったグウェンの瞳が暗く光った。

「わたくしを殺しても無駄ですからね。わたくしは遠からず死ぬし、翼公の代理人になれる方は他にもいらっしゃる。わたくしの死はむしろあなた方の不自由が長引くだけだと理解した方がよくってよ」

 追われた王女が告げたそれが、アルヴァ王国の現王朝の終焉となった。

「――以上をもって詮議をひとまず終了とする。追って沙汰するが、不在等を理由に呼び出しに応じぬ場合は逃走の罪に問うゆえ、今後の行動には重々気を付けるように」

 へなへなと崩れ落ちるマリスをカリトーが拘束する。広間を囲んでいた重臣も一気に老け込んだ様子で、武器を手放して投降した騎士や兵士たちはどこから集めて来たのかレアスと数名の神殿島の聖職者たちが取りまとめ始めた。恐らく城内のあちこちで侍従や女官、王宮の仕人たちが同じように身柄を確保されているだろう。

 ここに至って抗議の声を上げない国王は、やはりコーディリアが理解したように何もかもを諦めていた。王権を取り戻そうともせず再び座した彼は、薄氷色の瞳でどこか遠くを見ている。力を失った姿は怯えていたはずの国の終わりを迎えてどことなく安堵しているようにも思えた。

 周りの様子を見ていたコーディリアは突然アルグフェオスに横抱きにされた。

「っえ、あ!? ちょ、ちょっと!?」

 腕の中で抗議の声を上げるが、彼は頓着せずに指示を出している。

「ウルスラとグウェンに滞在場所を準備し、護衛をつけるように。エルジュヴィタ伯爵家の者たちも同様に。伯爵夫妻、申し訳ないがしばらくコーディリアを借り受ける」 

「私は物じゃないんだけれど!」

 アルグフェオスが言ったので両親や使用人たちの存在を思い出したコーディリアは羞恥心で真っ赤になっていた。涙した上に、思いきりアルグフェオスに抱きついてしまった。異性に対する態度としていままでになかったことだ。手を振る父母の涙顔と微笑みがいたたまれない。

 だがそれも一瞬のこと。青い光に包まれたコーディリアはアルグフェオスとともに転移し、庭らしき場所にいた。

 緑の下生えの上に古びた長椅子があり、背後の壁に蔓が伝い、ぽつりぽつりと花が咲いている。文字盤のように見える白と紫のトケイソウ、小さなバラには蕾が多く花開くときを待つ。

(奥庭。王族や近しい人間しか入れない、あの)

 最後に訪れたときの記憶の苦さにため息したとき、俯いた頬を撫でられた。

 途端に痛みが消えた。顔や手足についていた細かい傷がすうっと音もなく消えていく。背中にできているであろう痣もなくなっただろう。コーディリアの今度のため息は安堵と微笑みを伴っていた。

「ありがとう」

「礼を言う必要はない。見える傷は治せるけれど、心の傷は違う。手をこまねいているうちにずいぶん傷付けてしまった。本当に、すまない」

 そう言うアルグフェオスの方が傷付いた顔をしている。コーディリアはかすかに眉を上げ、そうね、と苦笑を漏らした。

「マリスにやり返すつもりだったのに、あなたに邪魔されるとは思わなかったわ」

「すまない」

「原因に気付いていて何もしなかった私も悪いけれど。……これ、どうすればいい?」

 手首を返して汚れた紐に結えた指輪を示すと、彼は微笑をたたえて反撃に転じた。

「君は、どうしたい?」

 コーディリアは少しむっとした。勝手に顔が赤くなっていくのに気付いて急いで俯き、目を逸らす。くすりと聞こえた笑い声が疎ましいのに胸をくすぐってくる。

「……ずるいわ、そういう言い方。あなたはずっと、ずっとそう」

「知っている。一族の人間はこういう物言いをするよう教育されるんだ。言質を取られて制約に反することのないように」

 足元を掬われないように。不用意な一言で被害をもたらさないように。己の破滅を招かないように。

 そうしなければならない立場の似たものを知っているから、穏やかに言い返されると自分の子どもっぽさが際立つ。ずるいのはコーディリアだって同じなのに。

「私は、君の左薬指にその指輪を嵌めたいと思っている」

 不意にもたらされた願いはコーディリアの呼吸を奪った。

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