悔恨
夫も父も不在のまま年が改まり、寿永三年(一一八四)を迎えた。
あれきり、資盛からの便りはなかったが、この頃、平家は讃岐国屋島まで勢いを盛り返しており、一月の終わりには摂津国福原に城郭を築きはじめた。
いよいよ平家が都入りを果たすのではないかと噂されるようになると、姫は自分の考えが正しかったのだと胸をなでおろした。
(もうすぐ、殿にお会いできる。やっと殿がお帰りになるわ──!)
よろこびを分かち合おうと、夫から預かった
試しに弾いてみたことがあるけれど、夫の弾き癖がついていて、姫にはとても扱うことができなかった。
(わたしも、そうなりたい……わたしの心にも身体にも、殿のすべてを、なにもかも刻みつけてほしい)
この半年あまりの寂しさを慰めるように、姫は自分自身を抱きしめた。
そして二月。
平家は一ノ谷において惨敗し、再び屋島へと退いた。
平家潰走の報せを聞いた姫は、言葉を失った。
壊滅的な被害を受けた平家の情報は錯綜し、夫の無事を確認するだけでも相当の時間がかかった。しかし存命を知ったあとも、姫の喪失感は計り知れなかった。
(どうして──? 殿にお会いできるはずではなかったの? もう、すぐそこに殿がいらしたのでしょう? どうして、殿。なぜ、お会いできないの?)
後日、討ち取られた平家の武将たちの首が大路を渡されたと聞いたとき、はじめて姫は自分が大きな考え違いをしていたことに気がついた。
(わたしは、なにも知らなかった……戦や、平家が武門であることも、それがどういうことなのか、なにもわかっていなかった!)
自分が犯した過ちに、姫はぶるぶると震えはじめた。
目をそらしながら、その実、どうしようもなく心を囚われていた嫉妬と独占欲に惑わされ、判断を誤ってしまった。
あのとき、姫はなりふり構わずに夫のために行動すべきだったのだ。
院近臣である父や祖父だけでなく、法皇の姉であり准母でもある上西門院の女房であった祖母や、法皇の意向で即位した帝(後鳥羽)の生母である従姉、持てる伝手をすべて利用してでも夫の帰還を願い出るべきだった。
「わたしは、なんて愚かなことを……」
助けを求めた妻から突き放された資盛の絶望を思い、姫は叫びだしそうになる口もとを押さえた。強く、強く、頬に爪の痕が残るほど強く押さえても、指のあいだから嗚咽がもれる。
多くの血族をいちどきに喪った夫の傷はこんなものではないと、姫は頬の皮膚をくり返し引っ掻き、傷つけ、涙を赤く滲ませた。
それからも日ごとに自分を責めつづけ、ようやくいまからでも遅くないのではないかと思い立った矢先に、折よく父から帰京するとの便りが届いた。
平家が大敗する直前に、木曾義仲は頼朝の軍勢に討ち果たされている。都が頼朝の勢力下に入ったいま、祖父とともに身の安全を確信したのだろう。
夏の終わりに基家が持明院第へ帰るなり、姫は資盛が帰還できるよう訴えた。しかし、父は渋い顔をして首を横に振るだけで、まともに取りあおうともしない。
姫は声を荒らげて基家へ詰めよった。
「なぜですか! 父上は殿を助けてはくださらないのですか? わたしの夫がどうなってもいいとおっしゃるのですか? 殿は持明院家の婿ではありませんか!」
「……姫よ、法皇さまはすでに平家を見限っておる」
姫の勢いに面食らった様子で、基家は苦しげに言った。
「そんな……お、お
「舅殿は、鎌倉殿と通じておるからな。法皇さまは、平家から源氏に乗り換えられたのよ。舅殿には、その橋渡しを期待しておられる」
「それでは、それではまるで殿に──」
利用価値がない、と言いさして姫は唇を噛み締めた。法皇が鎌倉と手を結びたいと考えているのならば、実際、そういうことなのだろう。
「姫……そなた、ずいぶんと変わったのう」
おっとりと従順なだけが取り柄だと思っていた娘が、刺し違えんばかりの激しさを見せたことに基家は驚いていた。
そして、いまさら婿には利用価値がないかもしれないが、いまの姫ならばあるいは──と、密かに考えていたことを口にした。
「姫や、婿殿のことは諦めるが得策。そなたであれば、いまからでも関東の有力な御家人のどなたかに輿入れもできよう」
「──!」
驚きのあまりに声も出ず、怯えたように目を見開くだけの姫へ、基家は諭すように重ねて言った。
「わしは一年近く、この目でじかに鎌倉を見て、この肌でその空気を感じてきた。いま、勢いあるは関東ぞ」
「いいえ、いいえ! 父上のおっしゃりようは、あんまりです! 殿を見放すだけでなく、わたしまで関東へやっておしまいになろうとお考えになるなんて!」
「……この持明院家を、平家の道連れにするわけにはいかんのだ」
わずかばかりの憐憫の眼差しを姫に向けつつも、父はそれ以上の会話をいっさい受けつけなかった。
それからしばらくすると、資盛の兄が陣抜けをして命を断った、という話が姫にも届いた。昨年にも弟のひとりがおなじように入水して果てている。遺された夫の胸中を思いやった姫は、すぐに筆をとった。
しかし、基家に言い含められているのか、姫の文使いを引き受けてくれる者はだれひとりとしていなかった。この段になって姫は、これまでも資盛からの文を握りつぶされていたのではないかと思い至った。
(ああ、どうすれば……殿は、わたしを薄情な妻だと思っておいでかもしれない……ちがう、ちがうの。わたしはいつでも殿を思っているのに……どうして……どうして、こんなことに!)
味方をしてくれる者がひとりもいない持明院第の奥深くで、姫は孤独にあえいだ。
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