一弦一柱

 木曾軍が京へ入ってくると、一転して平家は賊軍となり追討される身となった。

 その一方で、木曾義仲と東国の源頼朝の対立も深刻化しており、都はきわめて不穏な情勢がつづいている。


 夫が無事に帰還することを祈る姫のもとへ、人目を忍ぶように文が届いたのは十一月のことだった。


「ああ、殿はご無事でいらっしゃる」


 目に飛びこんできた筆の跡に、胸の奥が懐かしさに締めつけられた。ほんの数ヶ月前のことなのに、もう何年も離れているような気がする。


 姫が最後に資盛に会ったのは、平家が都落ちをする数日前だった。


 夫は「法皇さまのご下命を賜り、近江へ出陣することになったよ」と、いつもの穏やかな声で言った。院御所へ出仕した帰りなのか、黒の衣冠姿でたたずむ夫には、出陣という言葉がまるでそぐわなかった。


「しばらく、あなたには寂しい思いをさせてしまうね」


 姫の髪に指を通しながら言うと、資盛は自身のそうを姫に預けた。


一弦一柱いちげんいっちゅう華年かねんを思う──わたしが留守のあいだ、この箏をわたしだと思って大事にしてほしい。調弦も、忘れずに頼むよ」


 弦の一本一本から、箏柱ことじのひとつひとつから、美しいあの日々を思い出してしまう──亡くなった妻を想う唐の詩人の作品を引用し、まるでながの別れのように言う資盛に、姫は胸が不吉に騒いだ。


「殿、すぐにお帰りになるのですよね? このまま、西国へ行っておしまいになることは……」

「それは、なんとも……ただ、わたしは法皇さまのご下命を拝して出陣するだけで、平家がどう動くつもりなのか、いっさいわからないんだ」


 その言葉を聞いた姫は、夫が平家とは別に行動しているのだと知って安心した。それならば、一門が西国へ向かっても、夫は都に残ることになるのではないか。


 一筋の光を得たようで、姫は目を細めた。


 こわばっていた姫の表情がゆるむと、資盛も口もとをほころばせた。

 その場に似合わぬ晴れやかな笑みを見せて、名残りを惜しむかのように姫の小さな身体へ腕を回した。


「わたしの可愛いひと。あなたと数日でも離れるのは、わたしも寂しくてたまらないよ。──でも、きっとすぐに戻るから、安心して待っておいで」

「はい。わたしも、殿のご無事をお祈りいたしております」


 出陣の準備のために自邸へもどる夫を見送る姫は、わずかな希望にすがりつくことで不安を打ち消した。


(それなのに、あのまま西国へ行っておしまいになるなんて……)


 涙があふれそうになり、姫はぎゅっと目をつむった。あの日のことを思いだすたびに、神仏から見放されたような底なしの恐怖と孤独に、身体が震える。


 平家が都落ちを決めたとき、資盛はそのことを知らされなかった。


 すでに平家が都を離れていると人づてに聞いた資盛は、その足で法皇に庇護を求めた。しかし、おなじように法皇を頼った姫の母方の祖父は助けられ、資盛は見捨てられた。


 心ならずも夫が都を落ち延びたと姫が知ったときには、すでに木曾軍の入京が始まっていた。彼らは、またたく間に都を占領した。

 手のひらを返した朝廷により、平家の人びとが官位を剥奪されて逆賊になったと聞いたとき、姫は夫の身を案ずるあまりに卒倒した。


 それからの日々は、まるで夜の抜け殻を抱いているかのように寒々しく、朝とも夜ともつかない空虚な時間だけが流れていった。

 いまも姫の心にはぽっかりと虚ろな穴が開いたまま、先の見えない暗闇が広がりつづけている。


 夫からの文には、太宰府にいることや、帝も東宮もご健勝であることが手短に記されていた。そして、姫に会いたい、一日も早く都へ帰りたい、そのために、姫の父や祖父から法皇さまへ取りなしてもらいたい、と切々と書かれていた。


「法皇さまに……」


 姫は文をひろげたまま、考えた。

 一度は夫を見放した法皇が、姫の父や祖父が取りなしたからといって助けてくれるものだろうか。


(でも、わたしも殿に早くお会いしたい。すぐにでも帰っていらしてほしい──!)


 この持明院第へ夫が戻ってくる日のことを、姫が思わない日はない。


 どのような言葉で出迎えようか、夫はなんと言ってくれるだろうか、顔を見たら泣いてしまわないだろうかと、いくら考えても思いは尽きない。


 その日を夢見るつかの間だけ、姫の心は満たされた。


 やはり、父に話してみよう──そう思ったとき、ふいに姫の胸をざらざらとした感情が通りすぎた。縹色の結び文と、嫌悪を呼び起こす濃厚な香りが生々しく思い出される。


(そういえば、殿はあの方とは別れるとも、別れたともおっしゃらなかった……いま、殿が都へお帰りになれば、きっとまた、あの方のもとへ……?)


 どくん、と、胸を打つ音が大きく響いた。

 夫の不貞を知ったあのときのような、胸がふさがる暗鬱とした気持ちが、ついと喉もとまでせり上がってくる。


 しかし、姫は自分の気持ちから目をそらし、父のことを考えた。


(……ああ、そうだった。父上はいま、お祖父じいさまと関東にいるのだから、すぐにお取りなしを頼むことはできないかもしれない)


 涙の乾いた目もとを指で拭い、空々しく無力なため息をつく。


 姫の祖父は、源頼朝の助命を嘆願した清盛の継母・池禅尼の実子で、平家でありながらも頼朝とは懇意にしている。

 頼朝と木曾義仲の対立が激化すると、親鎌倉派の祖父は迫害を恐れて関東へ逐電してしまった。姫の父が妻の縁を頼りに、舅の後を追って都を出奔したのは、先月のことだった。


(それに……そう、平家には帝もおわすのだから、戦にはならないのではないかしら……)


 平家は幼い帝を擁しているだけではなく、皇位継承に必要な三種の神器も持ち出している。それらを失うことがあってはならず、法皇も朝廷も穏便に済ませたいはずだった。


(きっと、大事だいじにはならないわ。わたしの文が父上に届くよりも、殿のお帰りのほうが早いかもしれないもの)


 心に刺さった棘には目をつむり、姫は返事をしたためた。

 毎日寂しくてたまらないこと、資盛の帰りが待ち遠しいこと、しかし、父も祖父も関東へ行ってしまったので、自分にはどうしようもないこと。


 書き終えた姫は、胸に沈殿する不愉快な感情を吐き出すように、長いため息をついた。


(……いないものは、仕方ないもの)


 姫が生きてきた世界は、あまりにも狭かった。

 都に横行する木曾軍の横暴が、やしきの女房たちの口の端にのぼることはあっても、宮中の奥深くで行われるまつりごとや、遠い西国で反旗を翻した豪族たちの急襲を受ける平家のことなどは、いっさい姫の耳には入らない。


 姫は自分が知るかぎりの狭い世界と価値観のみで、判断を下した。後ろ暗い気持ちをいだきながらも、まるで私情など無関係だと言わんばかりに、自分の心から目をそらした。


 そして、姫には知る由もなかったが、資盛は同時に法皇へも文を出していた。都へ帰り、龍顔を拝したいと訴えたが、法皇は一顧だにしなかった。

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