すべてを思い出して⑴

「千夏!」

「チナツ!」

『千夏ちゃん、大丈夫? 無事?』


 たくさんの人の声だ。スマホから、文也さんと瞳さんの声もする。がくんがくんと、身体を揺さぶられた。ちょ、目が回りそうだ。

 揺れる視界から、秀人と茶羅、それに水面に映ったるりが見える。あたしと目が合うと、すぐに目をそらして、まるで心配していないような素振り。

 今なら、なんの戸惑いもなく呼べる。

 あたしは水面に向かって、呼びかけた。


「お姉ちゃん」


 水球がまた飛んできたが、あたしの靴まで届かずに、地面に弾けて消えた。


「全部、思い出したよ」

「……そのようだな。だが―――だからどうした」

「お姉ちゃんが言ったように、あたしはのうのうと生きてきた……でも、あたしは今夜、ここに戦いに来たんじゃない。話し合いに来たんだ」


 話し合いのテーブルにつくためには、相手からの信頼を得なければ成立しないと、瞳さんは言った。都合の悪い記憶を失っているあたしと、すべてを覚えているるり。まずその前提を覆し、記憶を共有しなければ先には進まない。(記憶を消す術は、るりには通じなかったらしい)


「あたしたちがどれだけ本気なのかわかったでしょう」

「愚かしいことにな。して、仲良く話し合うような事柄が、わらわとお前の間にあるか? その身体を全てわらわに献上するというのなら、耳に入れてやってもいいが」

「それはできない」

「ならば、言葉は不要」


 また、水鏡湖の湖面から、水と氷の柱が出現した。表面にとげとげがたくさんついて、とげとげしている。あんなものを食らったら、秀人と茶羅が防ぐのは難しい。秀人の錫杖はもう使えない。

 あたしはできるかぎり、にこやかに笑う。


「お姉ちゃんが抱えてきた敵意の多くは、自分の身体が龍の体がなかったことでしょう。そのせいで夜の世界に閉じ込められていた。あたしは昼の世界に閉じ込められていた。一つの人間の身体に、人間と龍の魂が同居しているせいで。この問題が解決できたとしたら?」

「世迷言を」


 るりが肩を震わせる。笑いをこらえているのだ。水の柱も氷の柱も同調するように揺れたせいで、とげとげがいくつか飛んできた。頬をかすめる。


「そんな方法が可能なら、ご教授願いたいものだ。お前は人間の身体に戻るとしよう。して、わらわは? わらわはどこへ行けばいい? 同じ種族でなければ、肉体と魂は定着しない。結局は、わらわを追い出したいだけなのであろうな! はははっ、ならばここでその愚考ごと潰してしまおうぞ」


『はく製だよ』


 二対の柱が空中に浮かんだまま、ぴたりと止まった。

 音源はあたしから持っているスマホから。文也さんの穏やかな声が聞こえる。


『七宝神社には仔龍のはく製があるんだろ。るりちゃんの魂は、そのはく製に入ればいい』

「おい、誰だ。こんな、突拍子のない絵空事を話すのは」

『るりちゃんにはお初にお目にかかります。龍を研究している雄津文也といいます。以後、ぜひお見知りおきを』


 画面越しでも、文也さんが頭を下げていると想像できた。


「自称・研究者か。奇をてらった発想だと、褒めてはつかわそう。なるほど、器を得たとするが、その案は欠陥だらけだ。だが何よりも困難なのは、仔龍のはく製が、彼の神社の真のご神体だということだ。現神主が絶対に許可しない」

「父はおれが説得する」


 秀人は自分の手元に目を落としている。彼の指先から、紫の閃光が散る。


「ずっとおかしいと思っていた。違うと言うべきだった。だけど、おれが臆病だったから、父の言うとおりに、いいや、ときには自分勝手に判断した。それは、昨日までの話だ」

「ハッ! ダイジャが息子の言うことを素直に聞く器か?」

「なんだってする。毎日土下座したっていい、テスト教科満点を要求されてもいい。とにかくおれは、もっと父と向かい合うべきだった。話をするべきだった」


 秀人はあたしを見て、るりを見てから、声を震わせた。


「お前らに罪滅ぼしをさせてくれ」


 秀人。そんなことを思っていたんだ。秀人が消した記憶には、龍の―――るりにまつわるものもそうだが、両親がいないことを寂しがったり、夜に憧れていたあたしの記憶もあった。それらは痛みや苦しみを伴う。あたしのことを案じて、消してくれたんだ。

 全ての記憶を取り戻したいま、悪夢にうなされる日々が始まるかもしれない。

 だけど、あたしはとても清々しい気分だ。記憶を取り戻す決断を後悔はしない。

 あたしは深呼吸をして、水面のるりに向かい合った。

 取り戻した記憶のなかで、あたしとるりは確かに姉妹だった。記憶を失った日々の中で、あたしとるりはすれ違っていき、るりはあたしに憎しみを抱いている。

 ……また姉妹になりたい。新しい関係を築きたい。


『ねっ、約束だよ』

『……ああ』


 あの日の約束を、お姉ちゃんは覚えているだろうか。


「お姉ちゃん」

「だから、その呼び名で呼ぶな。愚妹が」

「お姉ちゃんって、何度だって言うよ。ずっと、ずっとさみしかった。いままで忘れていて、ごめんなさい」

「……わらわは別にさみしくなどない」


 瞳さんが『構ってほしい子どもみたい』と言ったことを思い出す。

 龍はプライドが高い生き物だ。ましてや一族の王の娘ならば、なおさら。それなのに、水鏡島の龍はるりの存在を無視した。るりは人の器に閉じ込められ、龍としてのアイデンティティを失った。

 どれほど耐え難かったろう。

 この世で唯一の姉さんのために、なんでもやってあげたい。

 文也さんたちとの話し合いで、段取りはついている。あとは、どう言葉を選ぶのか。

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