番外編

番外編1 Summer Information①

◇このお話は、友人の祥楽さんが描いてくれた漫画を私が小説化したものになっています。時期は第二部と第三部の間の、ティストがメインの物語です。



 青く、青く、どこまでも広がる透き通った空。

 こんなふうに空を見上げるのは、どれくらいぶりでしょうか。


 あの、何年も戦っていたような長く苦しい時も、今はもう過ぎ去った日々。

 彼らは自分達で勝ち取ったわずかな幸せを満喫まんきつするために、今、海に来ていました――。


 ◇◇◇


 さぁさぁと寄せては返す波の音が耳に心地よく響きます。


「ティストぉー」

「うん、今行く」


 高い声に呼ばれ、強い日射しに照らされてきらきらと輝く水面を眺めていた少年が振り返りました。淡いグリーンの瞳や髪、普段はあまり外に出ないために色素の薄い肌が日光を反射しています。


 水着に上着一枚という、これまでしたこともない格好が珍しかったのは最初だけで、目の前の光景に長い間目を奪われていたことに気付きました。

 自分を呼んだ相手を見止めたティストが首を傾げます。


「あれ、エルネアだけ?」


 砂浜を小気味よい音を立てながら歩いて来たのは、腰まで長い金の髪を垂らした女性でした。夏の暑さにさらされても、いつものワンピース姿で立つその美貌びぼうには少しのかげりもありません。


「えぇ。ミモルちゃんは着替え、ナドレスは荷物を取りに行ってくれてるの」


 それでね、と彼女は言葉を区切り、両手に抱えた大きくて長いものを差し出しました。


「悪いんだけど、これを立ててもらえない?」


 大きなパラソルです。折りたたまれていても、赤や黄色や緑とカラフルなのがわかります。


「うん、いいよ。どの辺にしようかなぁ」


 水着と同様、ティストは初めて見るそれをわくわくしながら受け取りました。普段、大国の王子として大切に扱われている彼には、むしろ「頼まれる」という行為そのものが嬉しいようです。


 キョロキョロと辺りを見回し、どこに立てようかと迷っている様子は年相応の男の子らしさをにじませていて、エルネアもふっと笑みをこぼしました。


「ティスト、およごーよ!」

「う、うん」


 着替えを済ませて走ってきたミモルを見て、パラソルを立てていたティストの顔にさっと朱がさします。

 エルネアお手製という、腰にフリルの付いた水着をまとった少女は非常に可愛らしく、どこを見ていいのか戸惑ってしまいました。


 ミモルはそのまま手を引いて、彼を海へと誘います。その際、水に入るのが初めてのティストを安心させようと優しく声をかけるのも忘れません。

 微笑ましげにその光景を見詰めていたエルネアの後ろに、ふっと影が生まれました。


「どうかした?」


 飲み物などが入った袋を抱えた長身の青年――ナドレスが文字空から通り舞い降りてきて言います。足先が砂に触れると同時に、その背に生やした翼が羽根を数枚散らしてすうっと消えました。


「元気だなと思っていたの」

「元気、か」


 ほら、と見るように促すと、しかし二人を見たナドレスはその表情をくもらせます。どこか自嘲じちょう的な瞳でした。


「ナドレス?」

「今は、元気に笑っていい時なんだよな」


 エルネアはどきりとし、彼女の美しい顔にも痛みに耐えるようなしわがうっすらと刻まれます。思い当たる節があり過ぎるからです。


「ティスト様さ、あの一件の後から今までほとんど笑わなかったんだ」


 事情を知らない人が聞けば、すぐには信じなかったでしょう。現に、手を引かれて海に恐る恐る足を浸けているティストは、ちょっと困ったように笑っています。


 ナドレスははじめ、笑わない主を見て、ミモル達との別れを寂しがっているのだと思っていました。けれど、しばらく経っても少年の心がいやされている気配はなかったのです。


「あんなことがあったんだ、当然だよな」


 あの戦いは、幼い彼にとってあまりにでした。

 訳が解らないうちに戦いに巻き込まれ、信じていた城の者達も自分をおびやかす存在になってしまいました。彼自身は何も悪いことなどしていないのに……。


「初めてティスト様の前に現れた時、人を信じることに疑問を持った目をしてた」


 なんとか追っ手から逃れて辿りついた教会でミモル達に出会えたとはいえ、きっと何を信じれば良いのか心の底で迷っていたのでしょう。


「だから思ったんだ。持っている力の全てで守ろうって。もう二度と心を閉ざしてしまわないように」


 絞り出すように決意を語る青年をエルネアが見詰めていると、彼は背を向けて「ありがとう」と呟きました。


「実はちょっと行き詰まってたんだ。らしくないよな」


 ナドレスは乾いた笑い声を吐き出すと、「海に誘ってくれて正直有り難かった」と告白し、感慨かんがい深げに続けます。


「ティスト様のあんな嬉しそうな顔、久しぶりに見たなぁ」


 水をすくって眺めたり、飛沫しぶきを浴びてはしゃぐティストは、とてもあと数年で王位をぐような麗しい身分の者には見えません。どこにでもいる普通の子ども、そのものです。


「あっ」


 少年はナドレスに気付いて走り寄ってきました。砂に足を取られてうまく動けないようですが、それすらも楽しんでいるみたいに見えます。


「沖まで連れていってくれない?」


 目を輝かせて強請ねだるのが珍しかったのか、ナドレスも身をかがめて目を細めました。


「いいよ」

「本当? ありがとうっ」


 こうして手を取ったのも、いつぶりでしょうか。


「じゃ、ちょっといってくる」

「え、えぇ」


 見送るエルネアもやがて視線を落とし、不安なのは私だけじゃないのね……と胸の内だけで呟いていました。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る