番外編1 Summer Information②

 ゆらゆら揺れる水面の立てる音が、体をいっぱいに満たします。陸から遠く離れたところで海に身をひたしていると、なんとも不思議な気分になりました。


「大丈夫、怖い? 結構深いよ」


 そう言うと、肩に掴まって浮いている少年は首を振り、気張った顔で平気だと言いました。


「本当?」


 目に見えて意地を張っているのが分かり、おかしくて思わず笑みをこぼしたら、ティストは怒ったように「本当!」と答えてふくれ面を作りました。そんな仕草が更に笑みを誘うとも知らずにです。


「あっ」

「何?」

「今ひかったの、魚だぁっ」


 ゆらりと揺蕩たゆたう水面が時折鋭い光を放ちます。海を泳ぐ細身の魚のうろこが陽光を照り返して輝いているのでした。


「ほらっ、また!」


 波立たせて見るように促しながら、次の瞬間にはくらげに目を奪われていて、かと思えば今度は浮かび方を教えてとせがんできます。

 くるくる変わる感情はまるで少女のようで、それでいて決して違うものも同時に抱いていることをナドレスは知っています。


 貴方は強い方だ。こんなに幼くても王子としての誇りを持っていて、毎日の雑務をこなされている。


 あまり笑わなくなってしまった時も、ティストは誰にも弱音を吐きませんでした。


 ……誰にも?


 ティストが一際強く跳ね上げた海水が、ぱしゃりとナドレスの顔や髪をらします。


 俺にも。どうして。いつだって一番近くにいたのに。


「びしょびしょだね。ごめん」


 慌てて謝るけれど、そういえば海のまっただ中だったと思い返したのでしょう。驚きは苦笑に転じ、ふいにかげりました。


 俺じゃ駄目なのか。力になれないのか。


「ねぇ、ナドレス」


 底をさらうような声音に、自分でも吃驚びっくりするほどに肩がね、瞳が見開かれるのを感じます。ただし、それも最初の衝撃に過ぎませんでした。


「なにがそんなに不安なの?」


 え? 音にならない声がノドに迫り上がります。


「あの戦いがすんでからずっとそう。いつも不安で寂しそうな顔して僕を見てる」


 何度も何度も、疑問符ぎもんふが生まれては頭を埋め尽くしていきます。


「ちっとも笑ってくれない。みんなで海に行けば、きっと元気になってくれると思ったのに」


 それは青年自身の科白セリフのはずでした。硬直する自分の前にいる少年は「もうどうすれば良いのか分からない」と言い、見詰めてきます。


「僕がキライになった?」


 召喚した者とされた者の間のつながりが、心に鋭く刺さる痛みを伝えてきました。違う、そうじゃないと強く心が叫びます。こんな顔をさせたいのではなく、ただ笑ってほしかっただけだと。


 寂しそうで不安な顔をして笑ってくれなかったのは貴方じゃないか。辛そうでも何も言ってくれず、だから。

 そこまで思考が及んだところで気付きました。


『いつだって一番近くにいたのに』


 あぁ、そうか。

 すとん、と引っかかっていたものが落ちる感覚があります。


 俯いて涙をにじませているティストがはっとする間も与えず、彼はその細い肩を掴み、確実に声が届く距離に引き寄せました。


「ごめん」


 はっきりと自覚したのは、不安で笑えなかったのが自分の方なのだという事実です。


 そう、不安で怖かった。これからティストを守っていけるかどうか、とても不安だった。でも、そんな気持ちを自分では認めなかった。


 守護者として召喚されたのだから、大丈夫かと疑問を抱くことすら禁忌きんきなのだと無意識にいましめていたのです。


「ティスト様は何も悪くない。嫌いなんて思ってない。俺が弱かっただけだ」


 気持ちを隠すために、貴方のせいにしたんだ。


 二人はパートナーです。望むと望まないとに関わらず、思いは伝わってしまいます。そして、今回ナドレスが押し隠した暗い感情はティストへと伝播でんぱしました。


 本人さえ持て余すものを、十を過ぎたばかりの少年に受け止められるはずもありません。


 笑わないんじゃない。笑えなかったんだ。


『ごめん』


 言ってしまったら気持ちが軽くなって、自然と唇が笑みの形に歪みます。


「許してもらえるかな」

「……うん」


 久しぶりに見る本当の笑顔は、少しばかり泣いたせいで赤くなっていました。



「大丈夫?」

「うん」


 ナドレスはパラソルの下で横になっているティストへ気遣わしげに声をかけます。初めての海で水に長く浸かりすぎたせいか、ややぐったりとしていました。


「ティスト、もう大丈夫なの?」


 後ろから声をかけてきたのはエルネアで、その更に後ろからミモルもひょっこり顔を出し、少年を見舞います。二人とも、沖に行ったきり帰ってこないことを心配していたのです。


「まだだるい?」

「ううん、平気」


 言いながら起き上がったティストに安心したエルネアが、遅めの昼食にしようと提案しました。パラソルの下で仲良く弁当の包みを開いている子ども達を見ながら、先輩天使は後輩に「良かったわね」とささやきます。


「あぁ」


 かつての決意が自然と胸にわきがってきます。ようやく本当の意味で戦いが終わったのだと、目の前の光景から実感したのでした。


 《終》



 ◇漫画を文章へと起こすにあたり、どうしても加筆や変更の必要に迫られた部分があります。明るいシーンもあったのですが、カットせざるを得ず心残りです。

 でも、この物語の雰囲気を少しでもお届け出来ていれば幸いです^^

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