第6話 まっさらな幼子②

 私もそんなふうに忘れてしまったのねと、エルネアが呟きました。


「ニズムが言わなかったら、『チェク』という名前さえ、思い出さなかったと思うわ」


 彼女のかつての主だった女性・チェク。今となってはどんな顔で笑い、どんな声で自分を呼んだのかも、全てもやの向こうです。


 複雑な表情のエルネアにどう声をかけていいか戸惑ったミモルは、彷徨さまよわせた目をフェロルで止めました。指先で眉根に触れる仕草が、なんだか辛そうに見えます。


「どうかしたの?」

「いえ、少し疲れただけです。それより、ミモル様の方が」

「私? そういえば……」


 疲れを自覚した途端、体がだるさを訴えました。「そうだわ」と言ってエルネアが立ち上がり、心配そうに少女を覗きこみます。


「フェロルを召喚したのだもの。私達二人を支えるために、負担に慣れるまでは体が重いはずよ」


 確かに初めてエルネアをんだ時も、数日間は全身に力が入らず、意識も薄かったのを思い出しました。腕の中の赤毛の子どもを今度こそエルネアに託します。


「でも、一刻も早くヴィーラを探さなきゃ」


 行方知れずになってから、かなりの時間が経っています。これ以上は少しの時間も無駄には出来ないはずでした。けれどネディエは苦笑して「休め」とさとします。


「お前が倒れたら私がヴィーラに叱られる。それに、手掛かりが出来たからな」


 消えた天使と襲ってきた悪魔。二つの出来事が全くの偶然だとは思えません。スフレイも「だろうな」と同意しました。


「コイツが犯人か、でなきゃ仲間か。無関係だったら表彰モンの確率だぜ」


 それは小さく抑えた声でしたが、自分が話題にされていることを知ってか、赤毛の少女の睫毛まつげが小刻みに震えました。

 息をふっと吸い込む音が全員の口から漏れ出ます。今し方の騒ぎを思えば、緊張感を含んでいたのも無理はありません。


「……」


 つぶらで美しい、鮮やかな赤い瞳が現れ――覗き込んだミモルのそれとぶつかります。宝石のようなそれには何の感情も浮かんでおわらず、短い間、互いはじっと見つめ合いました。


「ま……」


 幼子の小さな唇から発せられる声に、先程までの刺々しさはありません。かと思うと、小首を傾げて言いました。


「ママ?」



「え、えぇと……?」


 全員が呆気に取られて、目の前の光景を見つめました。目の前の小さな女の子がミモルの膝にちょこんとおさまってニコニコしている光景を、です。

 もちろん、当のミモルも困惑しきった表情でした。起きるなり「ママ」と呼んできて懐かれれば、誰だってこういう顔になるでしょう。


「あなた、名前は?」


 とりあえず攻撃の意志はないと判断し、エルネアが腰をかがめて訊ねると、少女はにっこり笑って元気な声で「ジェイレイ!」と返事をしました。


「そう。私はエルネア。エルって呼んでね、ジェイレイ」

「エルお姉ちゃん!」


 えへへと嬉しそうにはにかむ顔につられながらも、名前に聞き覚えはないと首を振ってから次の質問をします。


「ジェイレイはどこから来たのかしら?」


 膝に座って見上げてくる女の子――ジェイレイはきょとんとして小首を傾げました。その仕草はまるで質問の意味が分からないといった風に見えます。


「外から来たでしょう? 何か覚えていることはない?」

「う~んとねぇ」


 小さいなりに一生懸命考える素振りを見せて、ジェイレイは言いました。


「ここでねてて、おきたらママがいたの」

「その前のことは?」

「?」


 薔薇ばらを思わせる唇とは対照的に、興味津々に覗き込む赤い瞳はくりくりと大きくて、見る物全てを飲み込まんばかりです。

 襲ってきた時は全身の毛を逆立てた猛獣であった悪魔は、今は尻尾のような髪型も相まって、生まれたばかりの仔犬を彷彿ほうふつとさせます。


『……』


 全員、無言でお互いの視線を絡めあうしかありませんでした。

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