第三部 第一章 さいかいと異変

第3部・第1話 意外なはいたつにん①

 人里はなれた森の奥。

 そこでは自然のままの木々や草花が伸び、重なり、からまりあって共存しています。


 太く成長した幹にはばまれ、よほど覗き込まないと見付けられないところにささやかな水場がありました。小さな動物から、肉食の獣までがのどをうるおしにやってくるいこいの空間です。


 ぴちょん、ぴちゃっと水音がはねます。


 おかしいのは、今はその水場にはどんな小さな生き物も訪れてはいないということでした。


 ぷくぷくと、今度は水底から泡が生まれて弾けます。


 森は静まり返っています。まるで、事の成り行きを、固唾かたずを呑んで見守っているかのように。


 ざばっ! とうとう、大きな飛沫しぶきと共に、「それ」は姿を現しました。


 目にも眩しい色の髪を振って、傷一つない自分の体を確かめると、あかい唇から「ふふ」と声がれます。

 自らの姿に満足した「それ」は、水辺から上がってしっとりとれた長い髪を絞りました。他愛ないそんな動作さえ、心の底から楽しそうです。


「これでやっと迎えにいけるよ、――」


 やがて、笑みの形を崩さぬまま、ぽつりと呟きました。次いでささやかれた名前を聞く者はいませんでした。


 ◇◇◇


「あれ……」

「おはよう。今日は随分とお寝坊さんなのね」


 まだぼんやりとした意識で目をこすると、美しい女性がこちらを覗き込んでいます。輝くばかりの金の髪に良く映える、吸い込まれそうな青い瞳は責めるでもなく、柔らかな微笑みで見詰めてきました。


「……おはよう、エル」


 誰かに呼ばれた気がして目が覚めたのですが、どうやら彼女――エルネアに起こされようです。外を見ると、開かれたカーテンから光を運ぶ朝日は、もうかなり高い位置にまで昇っていました。


「ごめん、こんな時間まで」


 いつもならとっくに目を覚まし、朝食を終えている頃合いです。

 漆黒の髪を揺らす細身の少女――ミモルがこんなにも遅くまで眠っていたのも、エルネアに起こされるのも珍しいことでした。


 慌ててベッドからい出そうとすると、エルネアは首を振り、いきどおりの代わりに心配そうな表情を作ります。綺麗きれいそろえられた眉毛の一本一本までが見分けられそうな距離です。


「あんまり起きてこないから声をかけたけど、まだ眠いなら寝ていてもいいのよ?」

「ううん」


 優しい提案に、ミモルはそう応えてベッドから足をおろしました。


「お腹すいちゃったから、もう起きるよ」

「そう。じゃあすぐに支度するわね」


 笑顔に戻ったエルネアがパタパタとスリッパを鳴らして台所へ向かうと、すぐに朝食を準備しているらしき音が聞こえてきます。

 それを耳にしながら着替えつつ、少女はふと思いました。もしも親ならば、寝坊したあげくに遅めの食事を頼めば「わがまま言って」と叱られるだろう、と。


 貧しい村では皆生きる為に必死で働き、合間をうように子どもの面倒を見ます。子どもが労働に駆り出されることも珍しくなく、そこに余計な時間などは皆無です。食事抜きで畑や店先に追いやられることでしょう。


「けど、エルは私のことほとんど叱らないな」


 ごく少ない注意の機会さえ、柔らかく包み込むように優しい調子です。

 エルネアが激昂げっこうと無縁でないのはよく知っています。二度、森の外へと飛び出した旅では、視線で相手を射抜くほどの怒りをたぎらせた姿を目撃しました。

 ただ、その片鱗へんりんさえ、少女には向けられないだけです。


「私がご主人様だからだよね」


 自分なりの結論を口にしてみます。そう、二人は姉妹でもなく、まして親子でもありません。地上につかわされた天使と、そのあるじでした。

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