第28話 こえの意味②

 よろめいたと思ったのは錯覚だったのか、瞬きをするように瞳を開くと、ミモルはさっきと同じ場面に戻ってきていました。

 目の前には怒りをあらわにするクルテス。後ろにはクピアにはばまれて近づけないエルネアとムイ。


 かなりの時間を消費したはずが、周囲の景色に一切の変化はありません。ただ、現実へ返った少女には、先ほどまでとは違うことが一つだけありました。


『もうやめて。お願いだから』


「あなたにはこの声が聞こえないの?」

「なに……?」


『これ以上、誰かが傷つくのを見るのは嫌。たくさんよ』


 悲痛な、涙ながらに訴える声。今ならそれが誰のものか、何故聞こえてくるのかが分かります。


「声が聞こえてくるの」


 クルテスがはっとして胸を押さえました。


『やっと、一つ』


 ミモルには、少年が何百年もの時をかけて悪魔を呪縛から解き放った、あの瞬間の声の意味がようやく理解できました。

 あれは、『やっと一つ救えた』と言いたかったのです。


 天使はあくまで守護役でなければならず、それ以下でも以上でもあってはならない。そんな戒めを、女神が悲しまないはずはありません。

 ミモルは拳を握り締め、もう一方の手でぎゅっと包みました。その様子は祈りを込めているようにも、痛みにえているようにも見えました。


「きっと、これまでも幾つもの繋がりが歪んで、ねじれて……切れて。その度に辛かったんだと思う。諦めろ、なんて私には言えない。好きな人に自分に笑いかけて貰いたいって思うのは、とても自然なことだから」


 でも。言葉を切って、数呼吸してから一息に吐き出しました。


「あなたがそう思った相手は、ずっと泣いていたんだよ。だって、女神様には、あなたが女神様を想うのと同じくらい、他に笑いかけて欲しいひとがいたんだから」

「そんなこと分かってる」


 クルテスが遮るように言います。これまで何度も考えては振り払ってきた現実を、まざまざと突き付けられるのを拒んで、消し去ろうとするかのように。


「分かってるんだ。でも、……どうしようもないじゃないか」

「……そうだよね」


 ミモルは痛々しいものを見るような視線で、彼にそっと触れました。そこにはもう恐ろしい化け物はおらず、傷ついた哀れな少年が立っているだけです。

 彼の身体は冷えて、強張っていました。少女は腕に触れたまま瞳を閉じて、「声」がする方へと精神を沈めていきます。


 真っ暗な闇から輪郭が生まれ、巨大な扉を形作ります。その扉に手を添えて、迷いを振り切るように強く押すと、光が溢れました。

 誰もが息を呑みました。肩まで伸びた黄金の髪と純白のドレスが波打ち、くっきりとした色合いの大きな瞳が現れます。地上に女神が降臨した瞬間でした。


「……」


 その体は透けていましたが、この場に現れたのは確かだと皆が肌で感じ取っています。そのピンク色に染まった唇がゆるゆると開かれました。


「……全ては、間違いでした」

「サレアルナ?」


 磨かれた宝石のように美しい顔に不釣合いな皺を寄せ、歌をさえずるためにある口から後悔が零れ落ちます。


「私があのひとを愛したのも、あなたと共に封印される道を選んだことも、……私の力を、子どもたちに分け与えたのも」

「それって、一度封印が解けたのは、女神様が解いたから?」


 ミモルには、最後までわからなかった謎が解けた気がしました。神話の中で抜け落ちていた、かつて一度だけ封印が解かれた場面が、ようやく埋められたことになります。


いさかいに耐え切れなくなった私は、年月がクルテスを変えてくれると信じていました。人の中で転生を繰り返して命を巡る間に、大切なものが何かに気付いてくれると」


 それは間違いでした。姿だけは変わってしまった友人を見詰めながら、彼女は悲しげに話し続けます。


「お互いにどこまでいっても変わらなかった。そのことを認めずにはいられなくなった頃、私は自らを呪いました」


 このままでは未来永劫、人の中で眠り続けるだけで、何の解決にもなりはしない。人間が神々から遠ざかったことで、むしろ悪い影響を受けるのではないか。そう思ったサレアルナは、方向を修正しようとしました。


「封印を緩めた私は人に力を与えました。精霊の声を聞き、天との距離を縮めてくれるようにと願って」


 その頃にはあまりに長い間漂い過ぎていました。

 永遠に近い命があっても、荒波のように揺れる人間の中では次第に意識は薄れて力も削られ、やがては埋もれて消えてしまうかもしれません。


「だから、力を継いだ人間の中から、いずれ封印を解く者が現れるのを待とうと思ったのです」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る