第7話 清浄なるうた①

「扉を押すティストの背中に手を当てていたら、その背中に自分が引き寄せられて飲み込まれそうな感じがした……」

『ふぅ、危なかった』


 当のティストは、目蓋まぶたを閉じたままゆっくりと立ち上がりました。足を肩幅に開き、何かを受け入れるように両手を空中へ差し出します。

 彼の意思とは思えない行動でした。


『もう助けは必要なさそうね。こっちは良いから、中へ戻るのよ』

「こんな状態のティストを放っておくの?」


 まるで無防備な操り人形のようです。こんなところを攻撃されたら、避ける動作出来ません。格好の的でしょう。


『どうせここから先は出来ることもないし、エルネアの方が心配じゃない』


 違う? と聞かれ、ミモルは言葉に詰まりました。耳を澄ませば何かが破裂するような音や、硬いものがぶつかり合う音が聞こえてきます。


『派手にやりあってるみたいね。実力伯仲ってところ?』


 激しい物音からすると、エルネアも本気なのでしょう。ティストを逃がしたことで、気兼ねすることもなくなっています。彼女の切り替えは、驚くほど素早いのでした。


「加勢すれば勝てるかも。よし」


 口の中でいくらか物騒なことを呟いて、足を向けた時でした。どん! と一際大きな衝撃が鼓膜を揺さぶったかと思うと、入り口から白い影が飛び出してきました。


 それは砂を巻き上げながら、なんとか後ろへ倒れこむのに耐えて立ち上がります。


「……エル!」


 腰の辺りでまとめていた紐が解け、金の髪が散っています。服が汚れ、ミモルが先ほど治そうとした傷と同じような線があちこちに走って布を裂いていました。


 短く息を吐き、きつく扉の方を睨みつける彼女は、硝子片を握る拳から血がしたたるのを気にも留めていません。


「絶対、出さないのではなかったのか?」


 ゆらり、と闇が建物から現れました。何度見てもそれ以外の比喩ひゆは浮かんできません。

 同じ闇でも精霊が作り出すものとは全く違った性質の、死の匂いがする黒さです。


「やめて!」


 我ながら陳腐ちんぷだと思う台詞せりふを叫びながら、ミモルは腕を波のように動かしました。自分に周りに纏わり付かせた風を、流れに乗せて敵に放ちます。


「風よ……壁を砕け!」


『精神を研ぎ澄ますのは、放出にも抑制にも大事なことよ』


 力のコントロールに想像力は欠かせません。姉を救って故郷に戻ったミモルにエルネアが教えたのは、力を押さえ込む手段でした。

 いかに自分を抑制するか、そのためにどうすれば良いのか……。目を閉じて心を落ち着かせ、内側に意識を持っていきます。


 新しい我が家の窓を開け放って外を眺めながら森の声を聞くと、思考が頭が冴えていくのです。その感覚を、ミモルはこの場で辿って再現しました。

 風の名前を呼ばずとも、透き通った少年の姿をした精霊が願いに応えて現れ、少女に寄り添います。大気の塊が闇を吹き飛ばす――はずでした。


「ぐっ」


 ぱぁん! 彼女は黒い腕で風を受け止め、弾き飛ばしました。破裂音が辺りに響き渡り、体を揺さぶります。


「……そんな」


 土煙の中、敵は悠然ゆうぜんと立っていました。ややされはしましたが、それだけです。

 威力も速さも力を扱い始めた頃より数段上がっているはずのミモルの攻撃は、あっさりと防がれてしまいました。


「ミモルちゃん、駄目よ。何をしても効かないわ」

「どういうこと?」


 ミモルが冷や汗を垂らしながらエルネアを見詰めると、彼女もようやく気が付いたように滴る血を振り払いました。教会に植えられた植物の葉を、赤い斑点はんてんが彩ります。


「あれは消滅の能力者よ。何もかもを消してしまうの」


 つまり、今もミモルの起こした風を防いだのではなく、消してしまったというのです。敵はほう、と感心してみせました。


「たったあれだけで見破ったか。これは、あまり引き伸ばすと不利と見える」

「あなた、人間でしょう。どうしてそんな力を持っているの」


 返事はありません。ただ、残酷な笑みが口元に広がっていきます。一歩黒衣の女性が前に出、同じ歩数だけミモル達が下がりました。


 消滅の能力が、どれほどの威力を持った力なのかは分かりません。言えるのは、彼女には自分達の存在そのものまで消してしまえるかもしれないということです。


「エル、見当も付かないよ。こんな相手、どうやって――」

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