芸術家の瘡蓋
おかやま
第1話
空に長く連なる薄い雲を、徐々に太陽の光が赤く照らし始めた。部屋の小窓から入る生暖かい風が、絵を描き続けている彼のつややかな頬を少しかすめる。他人にとっては億劫なほどに思えるその作業が、彼にとっての生業であり、また、全てであった。彼が向き合うキャンパスには、無数の鮮やかな絵の具の色がその特異性を激しく主張しながらも、それらすべてが巧みなまでに調合しあい、描かれているその絵の秀抜たる様をこれ以上ないほどにまで引き立てていた。小窓から差し込む赤みを帯びた日光は、布地に浮かび上がる固まった油を照らし、その麗しさをより一層際立たせている。
―プルルルル、プルルルル、
唐突にテーブルのケータイが鳴り出した。彼はそれに喫驚した後、ゆっくりと席を立ち、電話を取った。
「先日の個展、ありがとうございました!先生の素晴らしい絵のおかげで、もう現場は大盛況でしたよ」
電話口からは明朗な女性の声が聞こえてきた。彼は覚えのあるその声に耳を傾けながら、少し間をおいた後、返答をした。
「…ええ、それは良かったです。」
「一時はどうなるかと思いましたが、先生のご親切のおかげで、会場側とのトラブルも解消することができましたし、本当になにもかも先生のおかげです」
彼女のその言葉に少しの笑みを浮かべた。
…風が少し強くなり、彼の頬を多少の力を持って叩く。ふと小窓の外を見ると、住居の前に広がる小さな露地の少し向こうにある、青々と茂る一本の木が、彼の目に止まった。
「まだまだ私達、新米の企業ですけれども、これからも先生の作品の素晴らしさを、伝えていけたらなって思っています」
電話口からは相変わらずいきいきとした彼女の声が聞こえてきた。
…風が彼の髪を掻き上げる。まだ花弁を隠したままの蕾の塊が、風にゆらりと揺らされた。
「とは言っても、先生の作品の素晴らしさは、もうすでに周知のことではあるとは思いますけど…」
彼の耳には、彼女の小さな笑い声が聞こえてきた。
…風が強くなり、彼の背後に吹き抜けていく。大きく揺らされた蕾の先から、多少の青みを帯びた白い花弁がかすかに見えた。
「でも、これからもどうぞ、うちとのお付き合いも宜しくお願いします!」
「ええ、宜しくお願いします。」
そう返事をした後、彼女の嬉しそうな声が聞こえてきた。
…風が小窓に強く衝突し、その木の枠が軋んだような音が聞こえる。蕾たちはより大きく揺らされ、うちのいくつかは、その未来を明るいものとして暗示させる希望を象徴したような青みを保ったまま、集塊から千切れてしまった。その後に木枝に残る、やけに薄い緑のかかる断面が、強く、強く、彼に印象付けられた。
電話での会話を終えた後、彼は玄関から外へと出た。部屋前の滲みのかかった柵から見える夕日は、神々しいほどの橙色を放っている。腕が汚れてしまうことも構わずに、柵に腕をかけながら、彼は物思いにふけっていた。そこから望める街には、沢山のビル群や溢れんばかりの人々が、しっかりと息をし、生命の鼓動を打っていた。ふと下を向くと、彼はその予想外なほどの高低差を初めて認識した。自然なうちにその、黒く光るアスファルトの色が、彼の視野を支配する。黒色は、日光を反射しながら、段々と赤みを孕んでいく。そして、彼の脳裏を、どことなく鮮やかに輝く赤色がかすめた。
…風が彼を包み込むように優しく吹く。ふと我に帰ると、彼はゆっくりと口を開けながらつぶやいた。
「これが、愚かさなのかな…」
先程の自分の了簡に畏怖を抱きながらも、しかしながらその顔には、不気味なほどの笑みが浮かんでいた。柵から退け、部屋へ戻ろうとした彼の背中を照らす太陽は、彼が仏のごとくある様をよく強調していた。
芸術家の瘡蓋 おかやま @okayama
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。芸術家の瘡蓋の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます