朱莉

 大学での思い出は人並みと言える。人並み程度だった。というわけではなく、人並みの幸福を手にしていた。という意味合いだ。

 私は色々な人と話すことで、色々な私を見つけることが出来た。

 高校生の頃の未熟な私は、いくつも存在する私の中のたった一人で、何か現実的な決断をするときに、影響を及ぼすことはなくなっていた。

 たまに、あの夏を思い出す時にだけ、高校生だった未熟な私と出会う。そして語り合う。あの頃の、未熟だったからこその小さな幸福について。


 大学を卒業してから念願の一人暮らしを始めた。私は銀行員になり、そこで今の旦那、春日剛と出会った。剛の性格は情熱的と言える。そのくせ口数は少ない。だから職場ではアウェイな状態でいることが多かった。

 きっかけがあったわけじゃなかった。気がついた時にはだいぶ打ち解けていた。

 剛とは何度か食事に行ったり出かけたりした。そんな状況が一年ほど続いていた。

 休日に少し高級そうなレストランに誘われた。そんな風な場所には、もちろん行ったことがなかったし、あとで聞いた話だけど、剛も初めてだったそうだ。

 そこで私は剛が地元に帰ることを聞いた。ついてきて欲しいと、私はプロポーズをされた。

 すぐに返事を出来なかった。確かに嬉しかった。けど、その時にあることに気がついて嫌になった。私は、この瞬間をずっと待っていたことに気がついた。

 自分の選択は自分でする。それが私が凉夏さんの家であった出来事から、立ち直るための方法だった。

 けど、今の私は、まるでウツボカズラだった。

 お互いがお互いの家に帰る時、しめしめと罠にかかった昆虫を溶かす様子が脳裏に浮かんでいた。


 家に帰ってシャワーを浴び、剛のことを考えていた。そもそもプロポーズを断る気は全くなかった。ただ、このまま受け入れた時どうなるのかを想像すると、どうしても凉夏さんのあの生活を思い出してしまう。いつか、剛のことを私は溶かし尽くしてしまうのではないか。

 けど、このままウダウダしていると、剛はさらに私に詰め寄ってくるのが目に見えていた。

 これは私が切り開く未来じゃない。


 翌日は休みで、私は剛の家に向かった。小さなアパートだ。私は肩に鞄をかけている。中には肉とジャガイモとしらたき。調味料はあるものを使う。

 剛は当然、驚いていた。昨日、曖昧な返事をされたのに、急に家にこられたら当然だ。

 だけど、剛は落ち着いて私を迎え入れた。プロポーズの返事を急かして聞いてくるなんて無粋なこともしなかった。

 とにかく私は家に入って、肉じゃがをつくることに決めていた。

 突拍子もないし迷惑な行動だ。けど私には必要だった。別に、料理じゃなくても良かったんだけど。

 肉じゃがを食べてもらって、美味しいと言ってもらって、私は満足した。そして、私からプロポーズをやり直した。剛は笑っていた。

 そう。笑ってしまう。でも、その時は真剣だった。でも、だからこそ笑える。



 葉

 充が初めてこの喫茶店に来た時、俺は見惚れてコーヒーを溢したのを今でも鮮明に覚えている。

 充はこっちを見た。俺はなぜか、顔に書いてある文字を読まれている錯覚に陥った。もちろん気のせいだけど、心を読まれてしまうような気がした。

 その後に、状況を理解した充は砕けた顔で笑った。恥ずかしくて目を逸らしたら、トイレの前の鏡に赤くなった俺の顔が映っていた。

 店長は、素早く床を拭き終えると新しいコーヒーを淹れていた。

「すみません。今、淹れ直しますよ」

 コーヒーを頼んでいたのは充で、まだ笑っていた。

 その後も、店長は充にずいぶんといろいろなことを聞いていて、自然と俺のことも会話に混ぜていた。俺と充が同じ大学に通っていることが分かった。


 充はすぐに店長に気に入られていた。バイトに誘われてはいなかったけど、閉店後の喫茶店にいることを許された。

 その日から、閉店後のこの喫茶店は俺と充の自由なスペースになっていた。妙に集中ができる空間だ。コーヒー豆の匂いも適度に脳を刺激した。店長が器具を洗う音もなぜだか落ち着きを与えてくれた。


 閉店後、大体二時間くらいで店を出る。一度も喋らないこともあれば、ほとんどが雑談で終わることもあった。

 月に一度、新商品の試食会があった。季節の野菜を使ったサンドイッチで、貧乏だった俺にはご馳走だった。

 充はよく新商品についての感想を店長と話していて、聞きながら感心したりしていた。

 いわゆる、バカ舌な俺はよく分からなかったけど、その話を聞きながら食べていると、自分も新しいことに気がついたりして面白かった。

「葉はさ、食べ物で遊ぶなって言われたことはある?」

 試食会が終わり、その後の読書が終わったタイミングで、充は俺に聞いてきた。

「もちろんある」

 てか、そんなのは常識中の常識だろう。

「高級寿司屋って想像できる?」

「あるよ。行ったことないけど」

「僕はね、親に連れられて行ったことがあるんだよ」

 充の家は金持ちだった。超金持ちじゃないけど、お金には苦労しないくらいの金持ち。充は大学を卒業したら、親の仕事を継ぐのだ。

「いいな。御曹司は」

「あのな。うちはただの昆虫屋さん。細々とやってるんだよ」

 嫌味を言っても充は落ち着いている。怒らないと知ってるから言うんだけど、言った後はいつも少し後悔した。

「で、高級寿司屋がなんだって?」

「うん。あそこって目の前で調理をするでしょ。どんなふうに調理するのかっていうとさ、その時は鰹のタタキを作ってたんだ。直火焼きって言うのかな。炎をあげて、そこに鰹の身を入れるんだ。目の前で肉が焼けるのは、なぜか興奮するね」

「あー、確かに。いいなー。俺もそういうの経験してみてえな」

 鰹が香りを振りまきながら焼かれていく様を想像した。

「でもさ葉、これって食べ物で遊んでると思わない?」

「え?」

 まあ、言われればそうかもしれない。充の話はいつも意外だった。

「カツオは生食で食べられるし、寄生虫が心配ならもっとちゃんと火を通さなくちゃいけない。表面だけ炙るなんてのは、娯楽でしかないよ」

「でもさ、炙った方が美味いんでしょ。食べるなら美味い方がいいじゃん」

「食べ物を美味しく加工する、という行為自体がさ、根本的に生きる事とは無関係だろ。生きることに無関係なことは遊びだと思うんだ。まあ、美味いものを食べることはみんなが共通して欲することで、遊びと判定されずらいんだろうけどね」

「ふーん。そうか。でも、食べ物で遊ぶなっていうのは、無駄にするなって意味だと思うぞ」

 俺の真っ当な意見を聞き、充は一瞬黙った。何かを考えているようだった。

「きっと、美学の問題なんだと思うんだ。葉が食べ物で遊んだ末にちゃんと食べ切ったとする。それを、食べ物で遊んだと判断されるか否かは、そこに美学があるかないかで決まると思うんだ」

 充はよく美学のことを語った。そのほとんどは理解できなかったけど、その考えに少しだけ触れられたのは誇らしいと思っている。

 充の話は続く。

「寿司屋さんがカツオを炙る時、遊んでるなんて思わなかったんだ。けどね、その巻き上がる炎を見る父と、取引先のおっちゃんの表情を見てたらさ、この人たち、食べ物で遊んでるって思ったんだよ。この差はね、きっと美学の有無なんだ」

「美学かあー」

 俺はバスケのことを考えていた。美学がある人間の動きは確かに美しかった。

「で、なんでそんな話を今するんだ?」

 俺が聞くと、充は淡々は話始める。

「ここで食べる新商品にはいつも無駄がないように思っていてね。美しいなって思ってたんだ。じゃ、またね」

 そう言って帰っていった。急に店内が静かになる。

「店長ー、このサンドイッチは美学が詰まってますね」

 奥で明日の仕込みをしている店長に声をかける。

「なんだ美学って」

「無駄がなくて美しいです」

「んあ? 煩わしいのが面倒なだけだ」

 充はいつも、世界を難しく解釈していた。



 凉夏

 初めてのデートは三月の終わりで、冬休みのことでした。その頃、私は料理に凝っていて、その話をすると充さんは天ぷらの専門店に連れていってくれました。

 お昼の時間に待ち合わせをして、充さんのエスコートで天ぷら屋さんへ。高級そうな店構えでした。

 私は調理の風景を真剣に見つめ、私なりに上手に作るための技を学びました。

 油の中に海老を入れる様子を私は見ています。充さんは私を見ていました。

 出来上がった海老天を見てキレイと言うと、充さんはその理由を聞いてきました。別に、キレイ以外の理由は思いつきませんでした。一応、色がキレイだと答えました。

 そんな私の答えでも、彼は興味深そうに聞いて、そして深く考え始めました。その間、私はお店の人に進められるがままに塩で天ぷらを戴きました。サクサクとした衣はお菓子のようで、私はなんて贅沢なんだろうと充さんに言いました。

 食事を終えると、今度はスーパーで天ぷらを作るための材料を買いました。家族には、学校の友達と天ぷらの勉強をしてきて、夜は私が作ると嘘をついていました。

 材料を買ってから私たちは別れ、それぞれの家に帰ったのです。


 甘い恋愛は、その年の九月まで続きました。私の身体に新しい命が宿っているのが判明した日までのことです。

 まだ何も知らない充さんが、いつものように回答を見ている時、私は泣きました。もう、充さんとは会えなくなるような気がしたからです。その時は本当にそう思いました。

 充さんは私の異変に気がつくと、まず抱き寄せられました。とても冷たい行為に感じました。何故だか分かりません。その日はそれ以上何も言うことが出来ず、充さんには帰ってもらいました。

 次に充さんが家庭教師としてやって来るのは一週間後です。本当は、休日に三時間だけデートをする予定もあったのですが、断ってしまいました。

 一週間の間、私は、これから歩む自分の人生について考えていました。そして、私一人でどうしようもないと気がつきました。周りの人の意見に従おうと諦めました。

 でも、私はそうやって周りの人間を誘い込んでいるのでした。

 翌週、充さんは家庭教師ではなく私の彼氏としてやってきました。充さんは私と結婚するつもりだったのです。私は家族の顔を見ることが出来ず、ずっと下を見ていました。

 私は、充さんが両親を説得してくれると信じ切っていました。しかし、それほど世は甘くなかったのです。

 両親は首を縦には振りませんでした。それから、私は充さんと会うことを禁止されました。

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