朱莉

 凉夏さんの一件のあと、私は大学に行くことに決めていた。親に話すと、お金はないよと、それだけを言われた。それまでの私なら、そんな親に失望したのかもしれない。

 けど、私は充分に自立していた。精神的な自立のことで、別に一人暮らしをしていたわけじゃないけど。

 依存することなく、期待することなく、自身の決断と力で生きていく。そういう気持ちがあった。欲しいものがあれば、どうやって手に入れるかを考える。今までみたいに、保健室で時間が過ぎるのを待つのはもう、耐えられなくなっていた。

 凉夏さんの一件の後から、だんだんと、そして急加速しながらそうな考え方に変わった。

 あの夏が終わって、学校に戻った時も最初は保健室に行くことがあった。

 そこでじっと座って、優しくしてくれる保健の先生と話している。先生は用事があるとどこかに消えて、私は保健室に取り残される。

 一人には広すぎる保健室。退屈なので窓から身を乗り出して外を見ていた。

 そこで、たまに誰かと目が合うその瞬間を待っている。その時もいつも通り、窓に手をかけた。

 けど、急に不安な気持ちに襲われて、保健室を出たのを覚えている。


 頭の中には、古びた植物図鑑が浮かんでいた。

 ウツボカズラ。

 その時から保健室には怪我以外では行かなくなった。

 なりたくないと強く思った。植物のように動かず、誘惑に負けた餌を待つような食虫植物には絶対に。


 

 葉

 水上充を思い出す時、俺の頭の中には英雄ポロネーズが流れる。充は、演奏が難しいところはゆっくりとした速度に変えて演奏した。無理がなくて身の丈にあった演奏は、その人柄を表しているようだった。

 充は、おばあちゃんの家にあるチェンバロでしかその演奏をしなかった。演奏を聴いたことがあるのはおそらく、俺と水上凉夏と充のおばあちゃんだけだと思う。


 大学への進学が決まった時点で、俺は残りの人生を仕事に振り切ろうと思っていた。

 趣味を作るというのは考えられなかった。中途半端に何かを始めるなんて、我慢できない。

 なんでそんな風に考えていたのか、当時は分からなかったが、今ならわかる。

 俺は自分のために生きてなかったんだろう。誰かと比較して、誰かから認められることが重要だった。

 自分の喜びとか悲しみはあまり興味がなかった。試合での実績が俺だった。他人からの評価が全てで、俺自身の喜びや悲しみは、他人の評価の底に沈んでいた。深い深い底で押しつぶされそうになっている。

 なにかを始めようと思うと、評価が俺を深い底に追いやった。


 充には人を惹きつける魅力があった。正しくは、物事の重要な部分を見抜く力があって、おまけのような感じで人を惹きつけていた。

 例えば、英雄ポロネーズの演奏にそれが現れている。まず、自分のための演奏ということを分かっている。だから難しい部分はゆっくりと弾くし、弾けない部分は丸々カットして曲を短くアレンジしたりする。二つ同時に鳴らす部分も、重要なメロディーだけにすることもあった。

 誰かに聴かせることがあっても身内にくらいで、完璧である必要がないことを知っていた。実際、俺も水上凉夏もおばあちゃんも、充の演奏を好きだったのだ。


 俺は体育教師になるための勉強をしていた。忙しい時には日をまたぐギリギリまで家に帰ることが出来なかった。

 充とは、大学から一駅先にある喫茶店で出会った。俺はそこでアルバイトをしていた。大学に行く途中にあったから、時間の節約にちょうど良かった。

 少しだけ無理をして一人暮らしをしていた。寮に住む選択も、もちろんあったけど、集団生活はうんざりだった。

 何より、バスケを思い出してしまいそうな気がした。


 そこの喫茶店バイトは俺一人だった。店長が言うには、本当はバイトなんかいらないらしい。

 ある時、俺がこの喫茶店で丸一日ボーッとしていたことがあって、たしか大学に入ってすぐに友人間でイザコザがあり、その問題の解決のため、自らの意思で自らの評判を落とした時のことだった。その話を聞いてもらって、なんでか働くことになった。

「規律は守らないけど、人との約束は守る人間がいる。そういう人間は見ていて気持ちがいい」

 バイトの初日、店長は俺にそう言った。

 その言葉が俺のことを言ってるのだと気がついたのは、なにもかもが手遅れの時だった。



 凉夏

 充さんは物事を簡略化して捉えることに長けていました。それでいて、物事を複雑に考えてしまう人の気持ちもよく理解していました。

 人にものを教えるのが向いている人だと、出会ってすぐに思ったのを覚えています。私は彼に好感を持っていました。

 家庭教師はアルバイトでやっているようで、将来も教育関係の仕事につくのか聞いてみたら、そんな気はないと答えました。なぜか残念に思ったのを覚えています。


 当時、私は水野という姓でした。充さんは水上で、お互い水が入ってることを少なからず意識していたと思います。確か、勉強以外での初めての話題はこのことでした。それは充さんが来てから一月ほどたった時で、それまではあまり雑談はしませんでした。


 勉強中に、私が分からないところを聞くと、充さんは私の回答をじっと見つめます。私の思考を辿り、どんな思い違いをしているのかを探っているのでした。むず痒くなるような時間でした。

 私は見惚れます。いつでも思い出すのはその横顔です。そのむず痒さです。

 これが私の初めての恋でした。身体の中を羽毛で撫でられているような違和感です。その違和感は、繰り返し、繰り返し、訪れます。彼が回答に首を傾げたり、同じ箇所を読み直したりするたびに私は臓器を刺激され、最初はむず痒いだけだったのに、私の方で敏感になってしまうのです。

 彼はそのことに全く気がついていません。だからでしょうか。一つ一つの機微が突然で、その度に私は一撃をくらい、しまいにはヘトヘトになってしまうのでした。

 まだ子供だった私はそれで満足でした。思えば小さな幸福です。それを大切にするべきでした。

 人の欲望には際限がないことをこの時の私は知りません。

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