朱莉

 剛の実家で修行が始まった。私の修行、というより剛の修行だ。

 結婚式は地元の人たちで集まって宴会のような形で行い、正式な挙式は後に回した。

 剛の実家は車の修理屋さんで、剛の父と祖父の二人で切り盛りしていた。だけど祖父が倒れてしまって、剛が仕事を継ぐことになった。

 一年間の実務経験を積めば自動車整備士の資格試験を受けることができる。剛は真面目に取り組み一年後、無事に資格を取った。

 剛の仕事ぶりを見ていると、車の整備士の適性があるように見えた。人よりも機械との方が心を通わせているみたいだ。

 それからの剛は仕事に集中していた。私は新しい家のルールを覚えながら家事や庭仕事をした。

 義理父さんも仕事で忙しく、義理母さんは祖父の介護をしていて、忙しい日々が続いた。

 そんな中でも私は子供を妊娠した。義理父さんは剛の仕事の割合を減らして私の身の回りのことに専念するようにしてくれた。

 仕事中の手際の良さはどこへ行ったのか、剛さんの家事はミスや抜けが多かった。

 後になって、不慣れなことを嫌とは言わずにやってくれたことを感謝できるけど、当時はそんなことを考える余裕もなかった。

 義祖父の介護も日増しに大変になっていく。

 この家には死と生の予感が満ちていた。その二つは常に誰かが気にかけてやらないとすぐに消えてしまう。それはとんでもなく疲れる。けど逃げることは出来ない。

 そんな日々が続いた。けど、どんな環境でも住めば都だ。だんだんと慣れてきて、だんだんと家族というものを感じていた。

 子供が生まれ、やることはさらに増える。それはそれでなんとか生活できているのが不思議だった。

 当然、今まで気を使っていたことの中で、必要のない部分がどんどん削ぎ落とされていった。例えば、化粧だったり。

 まず、見た目の部分はかなり手を抜くようになった。

 子供が大きくなって余裕ができれば、また、なんて思う。



 葉

 充は大学三年の夏に特許を取った。昆虫の飼育に関するものらしい。

 この件で充は親を失ってしまった。取得の際、親と権利争いになってしまい、仲違いをしてしまったのだった。しかし、充はすっきりとした様子だった。なんとなく、予想通りだと、笑っていた。

 とはいえ、その時期の充は一時的にお金に困っていた。そして家庭教師のバイトを始めた。

 そこで充は運命の出会いをすることになる。俺の運命も変えてしまう出会いだ。当時、高校二年生だった凉夏と出会った。冬だった。

 その時期の俺は、教員免許のあれこれで忙しくなり、喫茶店のバイトを辞めていた。店長は花束で俺を送り出してくれた。充とは月に一度会うか会わないかくらいになっていった。

 そして翌年の九月に充は凉夏と結婚したのだった。

 挙式はしていなかった。どうやら、親との関係がお互いよくないみたいだった。

 凉夏に至っては学校を退学して無理やり結婚したらしい。

 充はその頃、特許の件も安定してそれなりの金を持っていた。その金で家を買った。

 充とは俺は、十月に一度会って、それからは全然会わなくなった。

 寂しくもあったけど、俺自身も忙しくて、たまに連絡をとっても一言二言で終わった。

 気温が下がり、クリスマスムードに包まれた頃、充から会わないかと連絡があった。十二月だった。

 俺も就職が決まり、少し余裕があるタイミングだった。充と会うために身なりを整えた。俺の知らない喫茶店で待ち合わせた。

 久々に会う充はいつもと同じ様子で俺は安心した。

「キノコに寄生されてね、知能が高まることで主人公は絶望的な世界で生きる術を手に入れる、そんな小説があるんだ。地球の長い午後って言うんだけど」

 話だって、いつものように妙に哲学的で懐かしい。

「知らない小説だな。てか、本なんて読まないから知ってる本の方が少ないけど」

「葉は本読まないもんね。でね、キノコ、じゃないんだけど、寄生虫がその宿主の行動に影響を与えることって本当にあるんだ。例えばカマキリはハリガネムシに寄生されると、水辺に近づくようになる。そしてカマキリは水に落ちる。ハリガネムシは水中で繁殖するから、そのためにカマキリが水に落ちるように操作するんだ」

「怖いな」

「確かに怖い。けど、もしかしたら人間の心も、なにかに寄生されていているかもしれない。見た目はおんなじ人間でも、根本的な行動の指針が違うことってあるでしょ? 同じ言葉で、同じ表情の使い方をしながら、実は根本的に違うことを目的としている可能性だ。ハリガネムシがカマキリに寄生して行動をコントロールできるんだ。人の心だって、もしかしたら別の生き物のように振る舞うかもしれない。もしくは、別の生き物に限りなく近いかもしれない。葉はちゃんと人間かい?」

「当然だろ」


 充の話のなかで、俺の人生に役立ちそうなところは全くなかった。けど、充のそんな話を俺は好きだった。そして、ここが喫茶店だからだろう。かつての日々を思い出した。

 バイト終わりの時間に店長と充と俺の三人で、あの落ち着いた空間。

 充があの空気感を凉夏と作っていると考えると、嫉妬の感情が芽生えた。それは同時に幸福感も感じさせた。複雑な気持ちだった。とても、人間らしい感情だと思う。


 日が暮れて、喫茶店は閉店の時間になっていた。閉店後のあの時間はここにはない。

 俺たちは喫茶店を出てからも話した。適当な公園のベンチに座っていた。

 充は、日が暮れたころから様子が変になっていた。明らかに震えていた。その震えをごまかすために腕を組んでいる。

「俺、凉夏との生活が怖いんだ。だから逃げるよ。ずっとじゃないんだけど」

 充は急にそんなことを言う。俺は不安になった。充が変わらずこの世界にいるということが、俺がこの世界で安心できる理由になっていたのだと感じた。

「え、どういうこと?」

 俺は静かに聞き返す。

「ごめん、それで、葉にお願いがあって」

「ちょっと待てよ、説明が足らないって」

「うん。分かってるんだけど、分かってる」

 黙り込んだ。説明不足なのは充が一番分かっているんだろう。

「お願いってなんだよ」

 俺は不貞腐れたようにいった。それは、充の願いを無条件で飲んでしまうのが分かって、自分が嫌になったからだ。

 充は顔を伏せたままだ。

「凉夏のことを、見ていて欲しいんだ。ちゃんと暮らしているかどうか」

 具体的にはどう言うこと? と聞けば良かったのかもしれない。自分で見てやれよ。何があったんだよって。でも、聞けなかった。聞いたら、その瞬間に充はもうどこかに消えてしまう気がしたから。

「分かったからさ……」

 そんな顔するなって、言えない。充は動かなかった。こんな充じゃ、俺までダメになってしまいそうだ。

「大丈夫だって。俺らってまだまだ若いんだぜ。な、気楽に行こうぜ。その、大体のことはやり直せるだろ」

 充を励ましたつもりだった。けど、この言葉は、もしかすると俺自身のために言ったのかもしれなかった。

 返事はない。顔も伏せたままだ。不安で、俺は特に意味のないことを喋り続けた。小さな蛍光灯だけで照らされた公園で、惨めなほど必死になっていた。

 流石に何も言えることがなくなった頃、やっと充が立ち上がり呟く。

「ごめんな」

 歩いて行ってしまう。俺はまだここを動き出せるほど、なにも納得出来ていなかった。なのに、なのに俺は充の後を追った。充は、物理的な力を使わずに俺のことを引き寄せていた。


 充は、結局凉夏のいる家に帰ろうとしていた。やっぱり葉に迷惑は掛けられないと。けど、充が震える姿を見ていると、俺は居ても立っても居られない。

「凉夏が心配だけど、逃げたいってことだよな」

 そう聞く俺に、充が曖昧に肯く。

「分かった。じゃあ凉夏のことは心配するな。ちゃんと俺が見ておいてやるから」

 そう言って無理やり充を俺の家に呼んだ。

 狭い俺の部屋の椅子になんとか充を座らせると、静かにじっとしていた。

「じゃあ、行ってくるから。変な気、起こすなよ」

 不安は膨らむ一方で、でも、ここで一緒に居ては約束が違くなってしまう。俺は充との約束を信じて、家を出た。


 電車に揺られながら、これも充の気持ちが落ち着くまでの辛抱だと自分に言い聞かせた。

 しかし現実には着実に俺の第二の人生が始まっていた。

 つまり、凉夏の監視をする人生。



 凉夏

 駆け落ち。二人だけの世界を作るために逃げ出して、自分たちの城を作りあげるロマンス。

 しかし、私たちの駆け落ちはもっと安定していました。既に自立して生活できるほどの収入を、充さんが得ていたのが理由です。

 が、どんなに生活が安定していようが、その選択で私は少しばかり世間と隔たってしまったのでした。


 父と母が、充さんと会うことを禁止した次の日、両親に退学することを伝えました。退学して、充さんと一緒になろうと考えたのです。当然のことながら却下されました。

 親からの監視がひどくなり、連絡手段もすべて取り上げられました。そのとき、生きることの意味を考えました。考えれば考えるほど、もう意味などありませんでした。

 私の生きる意味がなくなるのと同時に、セカイは私にとって意味のないものになってしまいました。充さんによって無限に広がっていたはずのセカイは、両親によってあっけなく狭められてしまいました。どこに向かおうとしても、遠く先に壁があります。どこまで走って行っても、その壁にたどり着くことはできません。果てのない箱の内側に閉じ込められてしまったような気持ちになりました。

 果てまで、彷徨い歩くしかないのです。


 そんな、時間も曖昧に感じるような時にです。ふと気がつくと、両親は私を軽蔑の目で見ていることに気がつきました。そんなふうな目で見つめられることは初めてでした。

 緩やかな午後の日差しがカーテンの隙間から私を照らしています。視線を落とすと、弟の首を私の手が締めているのが見えました。


 両親は、弟を贔屓している節はありました。年の離れた聡明な弟です。

 特に父は、自分の仕事を継いで欲しいと言う想いがあり、その為に男である弟を気にかけていました。

 だからと言って私が愛されていなかったわけではありませんでした。なので、今回の私と充さんのことで、まさかここまで如実に対応の変化が訪れるとは思いもよりませんでした。

 家の中では、私の存在は空気のようになりました。しかし、私を完全に無視できないのです。

 子供を産むか否か。そうした結果の世間の目。それをコントロールするために私は家に閉じ込められたのでしょう。

 この出来損ないをどう処理するのか、まだ決めかねているのです。だから、とりあえず先送りにするために、私は家の中で空気にされました。

 ともあれ、私からすれば、両親によって大切な人を奪われただけの話です。

 両親は、私の人生の決断を先延ばしにした結果、弟の首が締められる自体を引き起こしたのでした。

 弟の首を締めながら、この行為は至極真っ当なことだとカーテンから漏れる光を浴びながら思っていました。

 母は私を引き離して弟ばかり見ていました。弟は驚いて私と母を交互に見ています。顔を真っ赤にした父はカーテンを完全に閉めてから、一度私を睨んだ後、母の肩を抱き寄せました。

 その日、私は退学を許されました。そして、水野の家庭に居ることを完全に拒否されました。


 その時の舞い上がるような気持ちは忘れられません。私は偶然にも、果てのない箱の内側に触れ、逃げ出すことが出来たと思い込んでいました。実際には、さらに大きな箱の中に迷い込んでいるだけだったのでしたが。


 私と充さんの二人で駆け落ちをしました。広い広いセカイに駆け出したつもりで、奈落に落ちていくのです。


 充さんは家を買いました。愛の巣。なんていったりもするんでしょうか。普通は鳥の巣なんかを思い浮かべるんでしょうが、その頃は充さんから昆虫の話をよく聞いていて、巣と言えば、蜂の巣や蜘蛛の巣を思い浮かべていました。

 青色の屋根。広い庭。日差しがきれいに差し込む大きな窓。そして充さん。そこにすべてがありました。確かに、あの時、私は全てを手にしていたのです。

 充さんもほとんど家にいました。仕事といえば、充さんの父との裁判がどうとか、特許の契約とか、そんなところでした。

 様々な雑事に緩やかに追われながら、私のお腹の子は死にました。原因は不明ですが、おそらく環境の変化によるストレスじゃないかと、あの無責任そうな医者は言いました。


 充さんは泣いています。初めて充さんの涙を見たのです。その時、私の中で暖かいものが生まれるのを感じました。首の後ろの方、脳と体をつなぐその場所から、骨と骨の間を染み出すように溢れ、その感覚は、心地よさと気味の悪さが同居していました。

 私は、私が怖くて泣きました。つまり、充さんが私の為に泣いてるのが嬉しかったのです。

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