8
七回。これは私が凉夏さんに殺してと頼まれた回数で、同じく私がそれを断った回数でもある。
七日間、私たちはこの敷地内で過ごした。そして、変わらない生活をした。
私は、私たちがサナギになったんだと思った。この家の中でじっと体が蝶になるのを待つ。
そういう時間なのだと。
凉夏さんも落ち着いていた。美しい女性が、美しさを保っていることは奇跡だった。
私は笑顔の練習をしようと鏡を見るたびに、目の下のクマが深くなっていることに気がつく。
夜になると、凉夏さんがナイフを持ってきて私に言う。
「傷のところ、これで全部取って。ね、朱莉ちゃん」
「凉夏さん、寝ましょうか」
「それで、そのままにして。私、本気」
いつも、そこから先は無視を決め込んだ。
サナギだ。私たちは硬いからに覆われている。私たち蝶になる。
けど、だけど、羽がちゃんと開くだろうか。羽ばたけるだろうか。
凉夏さんが飼っていたサナギは、羽化に失敗して羽が片側だけになった。一度も飛べない。
飛べない蝶は自然界では生きていけない。けど、飼われているから、生きていける。
凉夏さんは蝶に餌をあげている時、とても穏やかな顔をする。
今日はその蝶が死んだ。天寿を全うしたと言える期間だった。
凉夏さんは泣き出しそうな声をして私にそれを教えてくれた。その声は、あの日の浴室を思い出させた。
今日、私は凉夏さんを殺すことになるのかもしれない。
私が殺さなくても、勝手に死んでしまうんじゃないかと不安になる。
その日の夕方、チャイムがなった。スーツを着た男がインターホンに映る。
「水上さんはいらっしゃいますか?」
ちょうど私は庭に出ようとしているタイミングだった。
「なんだろ。ちょっといってくるね。そこで待っててね。必ずだよ」
「はい」
私がどこにも行かないことなんて知ってるはずなのに。
まだまだ夏だ。夏休みがもうそろそろ終わろうとしているんだろう。そういえば学校を辞めるとか、そう言う話が終わってないな。
けど、どうしようもない。私はここから離れることができない。
あの坂道に、こちらを見ている人影がある。過去の私が見えた気がした。あそこから見えていた憧れの景色は一体なんだったんだろう。人影が動く。そして、姿が見えなくなった。
凉夏さんは対応にまだ時間がかかっているようだった。一体なんのようなのだろう。
ぼーっとしていると、庭に人が入ってくる。どこかで見た記憶がある。
スタイルのいいあの男だ。
「お嬢ちゃん。逃げるぞ」
「あ……。スタイルの良いお兄さん」
「ずいぶん覇気がなくなっちまったな。まあ、嫌だといっても無理に連れてくぞ」
私は、そのまま連れ去られる。庭を担ぎ上げられ、そのあとは引っ張られた。
あの家から遠ざかるにつれて、今年の夏は全て夢だったような気持ちになった。
スタイルの良い男と初めて会ったトンネルまでやってきて、止まる。
そこで汗を拭く。すると、だんだん取り返しのつかないことをしていることに気がついた。
「凉夏さん、私がいないとダメなんです!」
男はそう言う私を見て、真面目顔をしていった。
「お前で三人目だ」
「三人目? なんの話ですか?」
「お前、凉夏を殺そうとしただろ?」
「いや、私、殺そうとなんかしてません!」
「そうだな。正確には、凉夏に殺してくれと頼まれた」
「え」
この男は何を知っているんだろう。凉夏さんに殺して欲しいと頼まれているのは、私で三人目?
「まあ、お前は凉夏の心配より自分の心配をした方がいい。鏡、見てるんだろ。相当キテるぜ」
「凉夏さん、ひとりに出来ないんです」
「あいつはずっと一人だ」
「凉夏さん死んじゃうんです」
「前のやつも同じことを言ってた」
「その、前のやつってやめてください!」
泣きそうだった。いや、汗に紛れてるだけで、泣いていたのかもしれない。
男は変わらず真剣な表情をしている。
「俺はお前を救うためにここにいる。これも正確じゃないな。えっと、凉夏が変なことをしないように監視している」
まず、目の前のこの男が気に入らない。
「なんで、そんなことするんですか。ストーカーですか」
「違う。凉夏の旦那さんに頼まれてるんだ」
「旦那……」
「あのカブトムシは元々、凉夏の旦那が飼ってたんだよ。凉夏は旦那の帰りを待ってずっと育ててるみたいだけど。もう四年も経つのか」
この男は、凉夏さんのことを私よりもはるかに詳しく知っている。私は黙って男を見ていた。
「よし。わかってきたみたいだな。つまり、凉夏は旦那に逃げられた。そしてまだ帰りを待っている。だけど、待ちながらも、お前みたいな餌を待ち構えてるんだ。俺はなにか問題が起きないように凉夏の旦那から監視をするように言われてる。まあ、俺に言わせれば、凉夏となんてとっとと離婚しちまえばいいと思うんだけどな。あいつにはそう言ってるけど」
「でも、そんなのはおかしいと思います。あんなにきれいな女性を放っておく人なんて……」
「まあ、お前を傷つけるつもりなんてないけど、単刀直入に言わせてもらう。凉夏はそうやって人を自分に依存させるんだ。あいつの旦那は言ってたよ。じっと待ってるんだって。餌が自分の世界に迷い込むのを。本当にじっと待ってる。植物みたいに」
私は、凉夏さんの家の図鑑を思い出す。あれは遠い日の旦那さんのものだったんだ。そして、何があったのか分からないが、凉夏さんを食虫植物のようだと思いながらそこに印をつけたんだろう。
凉夏さんの心は、もっと別の生き物だった。
「お前、疲れてるだろ。まずは家に帰りな。もし、凉夏が心配なら、ここにくれば教えてやる。その後どうなったのかを」
「直接見に行きます」
男は少しイラついた様子で私を見た。
「だめだ、そう言う甘いところがあると凉夏に付け込まれる。もうお前は溶けかけの体だ。いいから家に帰れ」
たしかに、私は疲れていた。汗が太ももを伝って落ちる。私がバカで、騙されていたんだと、だんだん頭が理解してきて、泣きながら家に帰った。
家には匂いがした。嫌な匂いだ。だけど、嘘がない。これが現実だった。
部屋に入ってそのまま横になった。一体私は何をしていたんだろう。
チャイムがなる。心臓がドキドキとした。
母だった。
「あら、なんだか久しぶり」
笑っていた、放任主義だ。今まではその無責任さに苛立っていた。今は全くそんな気持ちはない。
母も一人の人だった。そして、私も、学生とはいえ、一人の人間だ。
片方の羽しかない蝶を思い出す。私は凉夏さんの家から羽化した蝶だ。羽はしっかりついているだろうか。
少なくとも、ついていると、そう信じるしか無い。
凉夏さんの家を出てから、私は自分がどんなに人間を知らないかを思い知った。
それで、先生や同級生や親にいろいろな話を聞いた。
少し悩んでから、学生を続けること決めた。紛れもない自分の選択だ。
あの、坂道の通学路はあの後一度も使っていない。凉夏さんの家にいくことはなかった。スタイルの良い男とは一度だけ会った。
「なにも変わりはしない。あんたがくる前と全く同じように、餌を誘惑してるよ」
涼夏さんは、これからもずっとそうやって生きていくのだろう。
ずっと、ずっと待ち続ける。
それが餌を待ち続ける食虫植物のようだったとしても、思い出すのはあの、憧れの景色だ。
一匹の蝶。そして、そこにいることができた、わずかながらも幸せな日だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます