凉夏さんがナイフを持っていたあの日から二週間は過ぎていた。

 とっくに夏休みは始まっていた。

 私たちは、画家が同じ絵を何度も書くように、同じ生活を満足がいくまで繰り返していた。

 憧れの庭は変わらず、昼を過ぎた頃に巨大な羽を広げている。

 あの日から、凉夏さんは微かに変化を見せていた。それは私の勘違いかもしれない。

 例えば、私がちょっと買い物に出かけて、戻ってくると、いつもよりわずかに挙動がおかしい。

 例えば、凉夏さんが寝ているときに私が起きると、隣で体をビクつかせる。

 例えば、私が寝ているときに、凉夏さんのすすり泣く声で目が覚める。

 そんなことが起きていた。

 これは、凉夏さんに訪れる規則的な憂鬱なのかもしれなかったし、もし私がいなければ誰にも知られることなく自分で克服できるものなのかもしれなかった。

 とにかく、私は見て見ぬフリをしていた。だけど、この不安定の正体がわずかにでも掴めれば、私はすぐにでもこの手を差し伸べたいと思っている。

「難しい顔してるね。最近」

「え、私ですか? そんなことないですよ」

 にっこりと笑って誤魔化す。

「笑顔、へたっぴだね」

 凉夏さんは、本当に上手に笑う。


 夕方、涼しくなった頃に買い物に出た。凉夏さんは昆虫の世話をしている。

 一週間くらい前から、私は一人で外に出ることをしてなかった。必ず、凉夏さんと一緒に出かけていた。

 それはなぜか。私が一人で出かける時、帰ると決まって凉夏さんが取り乱していたから。

 けど、昨日くらいから凉夏さんの様子が落ち着いているようだし、それに、欲しい本があった。

「行ってきます」

「はーい」

 普通のおかえりを期待して、本屋さんに向かう。

 本は売っているだろうか。教科書に載っているような小説家が書いている本だ。

 自転車で軽やかにトンネルを抜けると、そこに男がいた。スタイルの良い、バイク乗りの男。

「あの!」

 とっさに声を出す。凉夏さんの様子がおかしくなった理由を、あの人は知ってるのかもしれない。そう思った。

 なのに、あの男は私を拒絶するように去ってしまった。

 なんなの?

 不愉快な気持ちのまま本屋に向かう。目当ての本は無し。家に帰る途中、ムカついてたせいで本屋さんの中をちゃんと探さなかったことを悔やんで、もっとムカついた。

 あの男のせいだ。そう思おうとしても、原因が他にあることに気がついてしまう。

 私自身だ。このイライラの原因は。

 もしくは、いや、本当の原因は、凉夏さんなのかもしれない。けど、凉夏さんをそんなふうに思いたくはなかった。

 ——早く帰ろう。

 自転車の速度を上げる。

 帰りのトンネルにで、注意深くあの男を探した。当然、いない。


 家に帰ると、この前のように慌てた凉夏さん出てこなかった。

 安心してリビングに向かう。

 けど、状況は悪い方向に進んだ。部屋中にガラスが散乱している。

 きっと、凉夏さん。

「どうしました!」

 返事がない。窓から夕方の日が差込んでいる。穏やかな、穏やかなはずなのに。

 誰にも助けを求めることができない。いつの間にか、私と凉夏さんだけの世界になってしまった。

 とにかくドアを全て開けていく。どこにもいない。最後に浴室を開けると、そこに居た。

 ドッキリかなと思った。裸で細い腰と、血の赤が目に入る。

「凉夏さん!」

「あ、朱莉ちゃん。おかえり」

 深刻な状況で、いつもと変わらない声だ。それが余計に怖い。

「血、出てますよ」

「ねー」

 声が反響する。わざと呑気にしているのか。私は凉夏さんの腕を掴んだ。血が流れている。けど、傷は浅い。

 その傷よりも目を引く景色があった。

 下腹部に、無数のミミズ腫れ。色も、形も、普通ではなくなっている。

 私は思わず目を逸らし、凉夏さんの顔を見た。凉夏さんも顔を逸らしていた。けど、向こうの鏡に、表情が見えた。まさか、凉夏さんは見られてるとは思ってないだろう。

 笑っていた。初めて凉夏さんが醜いと思った。堪えきれずに溢れ出た笑い。その表情は一瞬で元に戻る。

「見た?」

 凉夏さんがお腹の傷を隠すようにして身を翻して言った。

「見てません」

 背筋がすっと冷たくなる。先までの笑顔が嘘のような、今にも泣き出しそうな声と表情だったから。

 笑っている凉夏さんと、泣いている凉夏さんが分裂してしまう気がして、そうならないように抱きしめた。服が湿る。

 今、どんな顔をしているんだろう。私も、凉夏さんも。


 浴室から出ると、外はまだ明るい。白昼夢だったのだろうか。けど、隣にいる凉夏さんの下腹部には無数の傷がある。服を着て見えなけど、確実にそこにあった。

 私が学校をサボって坂からあの庭の眺めているときにも、無数の傷は下腹部にあったんだ。

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