6
ベルを鳴らそうとすると、凉夏さんが庭から顔を出した。
「どうしたの? 物凄いスピード出してたけど」
学校帰りにいつも見ていた、お姉さんがそこにいた。
「ちょっと、虫が。ははは」
「それは怖いね。鍵、開いてるから」
家に入る。「あの家には行かないでください」あのスタイルの良い男の言葉を嫌でも思い出す。
広い家だ。凉夏さんがたった一人で住んでいる。確かに、少し変だ。それに働きにいかないし、一部屋を丸ごと昆虫の飼育に使ってる。
きっと、凉夏さんは昆虫博士なんだ。そう思うと納得がいく。図鑑だってかなり年季が入ってたし。よく分からないけど特許を持ったりしてるのかもしれない。もしくは、部屋いっぱいに飼育してるあのカブトムシたちを販売してるとか。
そう自分を納得させる。もし、何か起きそうになったら逃げ出せばいいんだし。
その日も、生活のタイムスケジュールは変わらない。食事は野菜が中心の健康的なものだった。しかし、簡素ではなく、オリーブオイルやら香りの高いブラックペッパーを使っていて、凉夏さんらしさは相変わらず保たれたままだ。
「それじゃあ、おやすみね」
また、私たちは絵画のようなネグリジェを着て眠りにつく。
凉夏さんは横で静かな寝息を立て始めた。私は、眠れないでいる。理由は簡単だ。
「あの家には行かないでください」
なんて単純なんだろう。結局その言葉のせいで一日がずっと夢のようだった。
凉夏さんを起こさないように布団から出る。リビングで、カーテンを開けると、月明かりが照らした。
ふと、あることに気がつく。この家には生活の匂いがない。
自転車を使えば家にも学校にもすぐ行ける。だけど、私は迷子になったような気分になった。なぜか、逃げた方がいい気がした。
凉夏さんの存在がないこの家は、時が止まっている。世界でただ一人になってしまったような不安。ふと、あのカブトムシたちを思い出す。
自分以外の生き物の存在を確かめたかった。世界五分前仮説を思い出す。私は、五分前に始まったものかもしれない。
ドアを開けた。部屋は暗い。その中で、カサカサと音がなっている。虫なんて嫌いなんだけと、今だけはこの音を聞くことができて安堵した。
それから、過去と繋がるために古びた図鑑を開く。大切使っているんだろう。汚れはあるものの、折れたり曲がったりはしていなくて、汚いとは思わなかった。
昆虫が詳細に載っている。さすがに気持ちが悪いと思った。悪意はない。
他の図鑑を見る。植物のを開いた。
昆虫図鑑と同じように大切に扱われているのが分かった。けど、こっちには鉛筆で書き込みがある。
文字があるわけじゃないけど、薄い鉛筆でまるで囲んである植物があった。
ウツボカズラ。
食虫植物だ。長い壺のようになっていて、誘き寄せられた昆虫は逃げることができない。そして捕食される。
私はその昆虫に感情移入してみた。生きながらにして体を溶かされていく。その時、思うのは後悔なのか。それとも、諦めなのか。
気分の悪い妄想で、なんとなく現実に戻ってきた感じがした。ここは、私が住む街に建つ無数の家の一つだ。
その時、地響きのような音が鳴った。
心臓が縮み上がる。人が小走りをする足音だ。凉夏さんだろうか? でも寝ていたはずだ。次にガチャガチャと荒らす音が聞こえる。もしかして、空き巣?
怖くなって電気を消す。「あの家には行かないでください」
スタイルのいいあの男を思い出した。もしかしてこのことを知っていたのだろうか。
とにかく、震える体が音を立てないように必死に息を殺すしかない。
足音は迷うことなくこの部屋にやってきた。
ドアが開かれる。
「おかえり!」
それは、凉夏さんの声だった。
「凉夏、さん……?」
とりあえず、凉夏さんでよかった。けど違和感がある。おかえりという言葉。
「あ、朱莉ちゃん……、だよね。ふふ。ごめん。怖がらせちゃったかな」
そして急速にいつもの凉夏さんに戻っていく。自然な速度ではなかった。とても人工的な速度。
「全然、大丈夫です」
なぜか、凉夏さんをこれ以上困らせてはいけないと思って平然を装った。
それから布団に戻った。凉夏さんはキッチンに一度向かってから隣に入ってきた。
私は気がついていた。ドアを開けたあの時、凉夏さんがその手にナイフを持っていたことを。
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