ベルを鳴らそうとすると、凉夏さんが庭から顔を出した。

「どうしたの? 物凄いスピード出してたけど」

 学校帰りにいつも見ていた、お姉さんがそこにいた。

「ちょっと、虫が。ははは」

「それは怖いね。鍵、開いてるから」

 家に入る。「あの家には行かないでください」あのスタイルの良い男の言葉を嫌でも思い出す。

 広い家だ。凉夏さんがたった一人で住んでいる。確かに、少し変だ。それに働きにいかないし、一部屋を丸ごと昆虫の飼育に使ってる。

 きっと、凉夏さんは昆虫博士なんだ。そう思うと納得がいく。図鑑だってかなり年季が入ってたし。よく分からないけど特許を持ったりしてるのかもしれない。もしくは、部屋いっぱいに飼育してるあのカブトムシたちを販売してるとか。

 そう自分を納得させる。もし、何か起きそうになったら逃げ出せばいいんだし。


 その日も、生活のタイムスケジュールは変わらない。食事は野菜が中心の健康的なものだった。しかし、簡素ではなく、オリーブオイルやら香りの高いブラックペッパーを使っていて、凉夏さんらしさは相変わらず保たれたままだ。

「それじゃあ、おやすみね」

 また、私たちは絵画のようなネグリジェを着て眠りにつく。

 凉夏さんは横で静かな寝息を立て始めた。私は、眠れないでいる。理由は簡単だ。

「あの家には行かないでください」

 なんて単純なんだろう。結局その言葉のせいで一日がずっと夢のようだった。

 凉夏さんを起こさないように布団から出る。リビングで、カーテンを開けると、月明かりが照らした。

 ふと、あることに気がつく。この家には生活の匂いがない。

 自転車を使えば家にも学校にもすぐ行ける。だけど、私は迷子になったような気分になった。なぜか、逃げた方がいい気がした。

 凉夏さんの存在がないこの家は、時が止まっている。世界でただ一人になってしまったような不安。ふと、あのカブトムシたちを思い出す。

 自分以外の生き物の存在を確かめたかった。世界五分前仮説を思い出す。私は、五分前に始まったものかもしれない。

 ドアを開けた。部屋は暗い。その中で、カサカサと音がなっている。虫なんて嫌いなんだけと、今だけはこの音を聞くことができて安堵した。

 それから、過去と繋がるために古びた図鑑を開く。大切使っているんだろう。汚れはあるものの、折れたり曲がったりはしていなくて、汚いとは思わなかった。

 昆虫が詳細に載っている。さすがに気持ちが悪いと思った。悪意はない。

 他の図鑑を見る。植物のを開いた。

 昆虫図鑑と同じように大切に扱われているのが分かった。けど、こっちには鉛筆で書き込みがある。

 文字があるわけじゃないけど、薄い鉛筆でまるで囲んである植物があった。

 ウツボカズラ。

 食虫植物だ。長い壺のようになっていて、誘き寄せられた昆虫は逃げることができない。そして捕食される。

 私はその昆虫に感情移入してみた。生きながらにして体を溶かされていく。その時、思うのは後悔なのか。それとも、諦めなのか。

 気分の悪い妄想で、なんとなく現実に戻ってきた感じがした。ここは、私が住む街に建つ無数の家の一つだ。

 その時、地響きのような音が鳴った。

 心臓が縮み上がる。人が小走りをする足音だ。凉夏さんだろうか? でも寝ていたはずだ。次にガチャガチャと荒らす音が聞こえる。もしかして、空き巣?

 怖くなって電気を消す。「あの家には行かないでください」

 スタイルのいいあの男を思い出した。もしかしてこのことを知っていたのだろうか。

 とにかく、震える体が音を立てないように必死に息を殺すしかない。

 足音は迷うことなくこの部屋にやってきた。

 ドアが開かれる。

「おかえり!」

 それは、凉夏さんの声だった。

「凉夏、さん……?」

 とりあえず、凉夏さんでよかった。けど違和感がある。おかえりという言葉。

「あ、朱莉ちゃん……、だよね。ふふ。ごめん。怖がらせちゃったかな」

 そして急速にいつもの凉夏さんに戻っていく。自然な速度ではなかった。とても人工的な速度。

「全然、大丈夫です」 

 なぜか、凉夏さんをこれ以上困らせてはいけないと思って平然を装った。

 それから布団に戻った。凉夏さんはキッチンに一度向かってから隣に入ってきた。

 私は気がついていた。ドアを開けたあの時、凉夏さんがその手にナイフを持っていたことを。

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