第4話 自覚症状3
僕はコンクリートの海を泳いだ。
バタフライで。
ドルフィンキックをする毎にコンクリートが砕けて地割れが起き、腕を一掻き回す度に鉄筋が薙がれて千切れて飛び散った。
それらはお互いにぶつかり合って更に砕け、掻き混ぜられ、マクロ世界において擬似的な液体を演じるに至る。
ヒーローの重圧から逃れるべく一度下向きに潜ったことで液状化する範囲は更に広がり、コンクリートの流砂は滝壺か蟻地獄の様相を呈した。
「無茶苦茶やるじゃん」
と、美作の声が水面の方から聞こえたような気がしたが、恐らく頭を打たれ過ぎたことによる幻聴だろう。きっとそうだ。そうに決まっている。
二、三周泳いでから勢いをつけて飛びあがり、蟻地獄の縁に着地した。
見ると、ヒーローも縁まで避難している。あわよくば巻き込まれていてくれていないものかと期待したが、そこはプロのヒーローらしかった。
「いよいよ化け物じみてきたな」
「人間だって天変地異くらい起こすさ」
「そこまで褒めてねえよ」
褒められていたらしい。嬉しいものである。
いつの間にか破裂した天井の水道管が、屋内にしては珍しい雨を降らせていた。
そういえばここはトイレの真隣であった。
かなり深くまで床を粉にしたが、下水管の存在を完全に忘れていた。
今降り注いでいる気持ちのいい雨も、一歩間違えれば破傷風菌をばら撒く地獄の雨だった可能性もあったのだ。
あまりにも恐ろしい
ぶるぶるである。
それは兎も角だ。
「整った」
蟻地獄を挟んで、改めてヒーローと対面した。
「さっきから何だ」
「『整いました』という意味だ」
「日本語の解説はいらん」
「10分と言ったな」
応援のヒーローが到着するまでの時間だ。
移動方法はヒーローによって個性が出るが、緊急車両よりは速いだろう。
「ああ、応援の話か。そうだな」
「それまでここから逃さんとも言った」
「言ったな。確かに言った」
「何をそんなに急いでいるんだ?」
そう。応援が来ると宣言してから、まだ2分も経っていない。
それなのにどうだ、ヒーローは体中から緑色の液体を垂れ流し、関節からは煙とともに焦げ臭い音がバチバチと響いている。
左腕は力なく垂れ下がり、肩で息をしているのがこちらからでもはっきりわかる。
雨が体をゆっくりと冷やしてゆく。
「そんな身体であと5分以上動けるのか?」
「………余計なお世話って知ってるか?」
「ペース配分が明らかにおかしい。こんなにも実力差があるのに」
「………」
「ぼ、俺を制圧したいんだとしてもおかしい。そこの
いや、実際には何か事情があるのかもしれない。
この辺りはほとんどアドリブというか、ヒーローの反応を窺うためのジャブだ。
僕の予想が外れていれば何かしら安心するような素振りを見せるはずである。
「お前は何かに急かされている。ヒーローの応援到着まで待てないんだ」
「………ヒーローごっこの次は名探偵ごっこか?」
「整ったって言っただろ。ごっこじゃなくて名探偵だよ」
そう。整ったのだ。
断じて見栄ではない。断じて。
決して、まだ全然証拠不十分な推測だとかそんなことはない。
雨はヒーローにも僕にも平等に降り注ぐ。
五倍くらいにパンプアップした僕の僧帽筋をゆっくり冷まし、ヒーローの関節から出る火花を沈黙させ、漏れ出る緑色の液体を希釈して目の前の滝壺に染み込んでいった。
「お前はヒーローが到着する10分後よりずっと早くにタイムリミットを設定した」
ヒーローの息が整い始めた。
身体が前傾し、少し四肢を動かす度に緑色が飛び出す。
「全身ボロボロになっても猛攻を止めなかった。と言うより寧ろ、全身ボロボロになってでも急いで俺を無力化したかったんだろ?」
ヒーローは何も答えない。
いつの間にか雨が止んでいた。
「応援を待てないのは、そのタイムリミットが来るとお前は自由に戦えなくなるからだ」
そう、恐らくヒーローは、皆こいつの様に闘い慣れている。
考えてみれば当然の事だが、重要なのは、なぜ考えてみないとわからないのかである。
「お前のスポンサーはどこだったかな。何か飲み物のCMに出てたよな」
「…何が言いたい?」
「昨日のバラエティ番組の放送局、そういえばお前をテレビで見る時はあの局ばっかりだよな」
返事は無い。
無言に含まれる意味を考慮するならそうとも言えないが。
ならばその無言という返事に応えよう。
「テレビカメラが到着するまであと何分だ?」
僅かな間だったが、不安になるくらい深い沈黙があった。
ヒーローは、フッと笑って、その首を左右に振って軟骨を鳴らした。
「名探偵というのは認めてやらんでもないな」
「嬉しいね」
「ならおれが話し合いに応じない理由もわかってるよな?」
もちろん。
ヒーローは深く息を吐き、姿勢を低くした。
細マッチョのクラウチングスタート、視覚的にはイノシシが関の山だが、その纏った気迫が何倍にも大きな幻覚を見せる。
手負いの熊が、最後の突撃を仕掛けようとしていた。
「90秒だ」
気迫が宣言した。
「今から丁度90秒後にカメラドローンが到着する。それまでには沈んでもらうぞ」
両眼が僕を捉え続ける。
その言の通り、交渉に応じるつもりは無さそうだ。
(世知辛いなぁ)
つまり、ヒーローというのはその活動資金の多くをスポンサーからの広告収入によって得ているのだ。
得ているのだというか、得ているのだろう。
ヒーローはCMやテレビ番組に出演し、スポンサーの広告塔になる。
スポンサーは広告費を支払い、ヒーロー活動を支援しているという企業イメージを買う。
僕の腹直筋がミシミシと音を立てて引き締まっていく。
ヒーロー活動は暴力を伴う。
当然だが、ヒーローとは暴れる
悪人の危険度によってはその場で処刑する権限すら与えられている。
(そんな活動は本来広告として成り立たない)
ではどうするのか。
どうしているのか。
どうなっているのか。
ヒーロー活動は、テレビなどの主要メディアによって演出され、番組化されている。
(あくまでも予想だが)
テレビ越しに聞いた必殺技の掛け声は、
男性ヒーローの筋肉を誇示するようなデザインのコスチュームは、
女性ヒーローの邪魔そうなフリフリ衣装は、
ヒーローをキャラクター化し、非現実感を演出し、視聴者の目を誤魔化すため。
悪人による事件が起きるとテレビカメラより早く駆けつけるのは、カメラ到着までに悪人を大幅に弱体化させるため。
僕がこれまで観てきたヒーロー像は、誰かによって作られていたものだったのだ。
天井から垂れた雨水が僕の鼻先で砕けて散った。
「考え事なんてしてる暇あるのか?」
「もののあはれに思いを馳せていた」
「意味が
「古典は苦手なんだ」
「………こっちがボロボロだからってあんまり気を抜くなよ」
「こっちも必死なんだ。勘弁してくれ」
ヒーローは自身をボロボロと表現したが、それすらも虚勢に思えて仕方がない。
満身創痍というか、疲労困憊とか百孔千瘡とか言いたくなる様相である。
「お前が退いてくれればそれだけで解決する話なんだ」
「それはできん。理由はもうわかってるだろ」
「そこまでして、…そうまでなって守らないといけないモノなのか?」
「そうだ」
「ぼ、俺にはわからない。何がお前を突き動かしてるのか」
漏れ出した液体が全身の熱で焼き付き、若葉色と焦茶色のモンスターさながらのアメリカンなカラーリングに成り果てている。
全身から噴き出す水蒸気の量が明らかに減り、その分は辛うじて気迫が補うことで見かけ上の投影面積を保っている。
彼は今、手負いの熊ですらなく風船の熊みたいだ。
「俺が今ここに立ち続けるだけで救える人々が何万人もいるんだ。ヒーローごっこ野郎には分からないかもしれんがな」
その眼光は未だ疲労など知らんとでも言いたげに輝き、僕を射抜き続けている。
「俺達はただ目の前の人間助けて万歳してるわけじゃねえんだ。社会を構成する何千何万っていう市民の平和を同時に守ってる」
重心が更に落ちる。
「俺一人でヒーローやってるんじゃねぇ。だから、今俺のためにヒーローを止めるわけにはいかねぇんだ」
ああ。
彼は紛うことなきヒーローだ。
彼の後ろには、彼を支える何万もの人間がいる。
彼の前には、彼が救う何十万もの人間がいる。
そして打ち倒す何千という
彼と対峙している僕は何者なんだろう。
社会正義の代行者であるヒーローと向き合い、ただ一人の悪人を守ろうとして校舎を粉に還す僕はいったい。
しかし、さっきまでの僕とは違う。
もう間違わない。
全身の筋肉が鋼と化し、背筋が伸び、構えた腕は素人同然の佇まい。
しかし頭の中は透き通っている。
僕がしたいこと。
僕がすべきこと。
何も見失っていない。
「整った僕に死角は無い」
この場をどうにかする算段は立った。
上手くいくかはわからない。
わからないが、整っているので大丈夫。
「またそれか」
「どうとでも言え。もうチェックメイトだ」
「……王手かけられたやつが何言ってる。田楽刺しだこの野郎」
なんだ、良い返しをしてくるじゃないか。
「お前とは会う場所が違えば仲良くなれたんじゃないかと思うよ」
心の底からの言葉だったが残念ながら微かな笑い以上の返事は無かった。
変わりにヒーローは言った。
「学習能力が無いらしいな。構えがさっきと同じだ」
ヒーローは言う。
対峙する僕に。
世界を救わなければいけない僕に。
「素人め、腹ががら空きだぜ」
ヒーローは言う。
対峙する僕に。
美作を救わなければいけない僕に。
だから僕は答えるのだ。
用意していた答えを。
あと30秒。
「二度もその手に乗るかよ」
「………馬鹿が」
衝撃波が一閃。
校舎が粉と散る。
視界が揺れる。
身体が強制的に前傾させられる。
ヒーローがそこにいた。
その脚が僕の腹に刺さっている。
だが、
「…………馬鹿はお前だ、やや受けレンジャー」
その脚を、僕の両腕ががっちりと抱え込んでいる。
小学生の頃はドッヂボールで日々鍛錬を積んでいたのだ。
あの努力の日々はこの時のためにあったのだ!
「………っ!!」
ヒーローは体を捻り、僕にホールドされた脚を軸にして蹴りを繰り出す。
当然両腕が出払っている素人の僕はよけられるはずもなく、全ての足裏が僕の顎を揺らす。
視界と脳が揺れる。
しかし僕は知っているのだ。
蹴りも突きも、その反作用を処理する軸足こそが重要らしい。
立った状態なら足で床を強く蹴ることがそれだ。
今は僕が掴んで離さない右足がその役割を果たしている。
だから解決方法は簡単。
僕はヒーローの足をしっかり掴んだまま、身体を大きく波打たせた。
足の裏から膝。
腰から肩。
肩から肘。
肘から掌。
躍動する僕の筋肉同士がお互いを引き合い、引き立て合い、結果として一つの大きな円運動を生み出した。
有り体に言えば、ヒーローを振り回した。
ハンマー投げの要領で。
「ぐぅうおおおおおおおおおおお!!!!!!!!」
というヒーローの声が、風切り音と混ざりながら渦を巻く。
風切り音はスズメバチの羽音の如くドロドロと尖り、階段前跡地を旋回し、遠心力に乗って空間に広がってゆく。
「社会には悪いがな! 法律順守してる場合じゃねぇんだ!!」
ヒーローを目の前の滝壺に叩きつけた。
先ほどの雨水を吸って表面だけが粘土状に緩く固まっていたらしい。ゴムッっという丸く鈍い音がひび割れ、その下の乾いたコンクリート
薄灰色の煙がフロア全体に広がり、渋滞を起こした後続の煙は割れた窓枠から一斉に屋外へ吹き出た。
「がはっ!!」というヒーローの呻き声に問いかけた。
これは重要な確認だ。
「お前を向こうの山目掛けて投げる。死なないよな?」
「………は?」
「途中で何か機械にぶつかるかもしれん。 死なないよな?」
「お前……、まさか、
「死なないなら良い。これが恐らく、この場の全員が一番損をしない終わり方だろ?」
ヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴ
と全てを掻き消さん勢いの独特なローター音が聞こえてきた。
テレビ局御用達の高性能カメラドローンの羽音。日本国民なら誰でも知っている。
「早く答えろ。折角煙幕張った意味が無くなるだろうが」
大型ドローンの力強い羽根の動きが舞い上がった粉末を掻き飛ばしてゆく。
時間がない。
「おい、どうなんだ! お前であれをぶち抜いてもお前は死なないのか? どうなんだ!?」
本当に時間が無いのに!
煙幕が晴れてしまったらどうするつもりなんだ!
「………ふふっ」
返ってきたのは笑い声だった。
「………無茶苦茶やりやがる」
「何がだ」
「何もかもだよ。無自覚かよクソが」
また少し笑い声が聞こえる。
「死なねえよあのくらいで。もう好きにしろ」
「わかった」
「最後に一つ聞かせろ」
「何だ、時間が無いぞ」
「お前は何者だ?」
「は?」
予想外の視界の悪さに慌てたのか、カメラドローンが粉塵の中でハイビームを照射した。
広範囲に舞い散る微粒子で乱反射し、強い光は指向性を失って四方八方好きな方向に走り始める。
僕とヒーローの二人だけで、純白の無限空間に取り残されたような感覚に陥った。
「お前は
「何が言いたい」
「お前はどちら側だ?
「俺は………」
僕は何者か。
プロのヒーローを前にして、
本物のヒーローを相手にして、
戦う僕は何者だろう。
ほんの十数分だったが、ずっと考えていた。
そして整った時に結論は出ていた。
「僕はヒーローだ。秩序の無秩序も全部救う、スーパーヒーローだ」
そして時間切れだ。
僕は、ヒーローを窓の方に思いっきり投げ飛ばした。
ハンマー投げの要領で。
そしてヒーローの身体に射抜かれたドローンが大破し、爆発した。
空間が白という無色に支配された。
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