第3話 自覚症状2

 僕の右拳が、ヒーローの左頬を捉えた。




 ヒーローの体が窓枠のアルミを捻じ曲げ、廊下の壁が弾け飛んだ。

 圧縮された空気が廊下のガラスを片端から割りながら走り抜け、終いには轟音になって一階のフロア全体に響き渡る。


 ガラスが舞い散るキラキラとした音が降り注ぐ。

 時間が圧縮されたような、順序がちぐはぐな音々を聞くと、まるで僕自身が光の速度に迫ったかのように錯覚された。




「み、悪人ヴィラン!! 生きてるか!?」


 壁にめり込んだヒーローでも、視線を外すわけにはいかないと本能が言っている。

 つい先瞬、目の前で蹴飛ばされて防火扉に突っ込んだ友人に向けて、僕は声だけで生存確認を行った。


「………今の爆発で死にかけたよ」

「生きてたなら良かったよ」

「お前に殺されかけたって話をしてるんだけど」

「すまんが電波が悪いらしい」

「お前の可愛い耳は肉の飾りか?」


 元気そうで何よりである。

 生憎電波が悪いので苦情は受け付けられないが、後で文句くらいは聞いてやろう。

 押し出された空気がこの地点をめがけて一気に流れ込み、砂塵だかコンクリートだかが渦を描いて舞った。


「もうちょっとそのままでいてくれよ」


 一帯の気圧勾配が凪ぐまで実時間ではほんの数秒だっただろうが、僕にとっては果てしなく長い時間のように感じられた。

 周囲のコンクリートも一通り崩れて気が済んだのか、パラパラという音も聞こえない。


「気を失っていた」


 ヒーローが声を発した。


「どのくらい気を失っていた」


 これは僕に問うているのではないのだろう。先ほどから何度か、無線か何かで通信をしているような素振りを見せていた憶えがある。


「大丈夫だ。もう少し動ける。

「損傷率75%までなら許容範囲内だ。

「あと何分ならちそうだ?

「………わかった」


 ヒーローが立ち上がった。


 ヒーローが立ち上がった。


 ヒーローが立ち上がった。


 深海に引きずり込まれたのかと身紛うほどの重圧がこの場を支配した。

 視線を外せないなんてものではない。指一本でも下手に動かせば即座にこの世と永遠の別れをしなくてはいけないような、そんな感覚が全神経を石のように変えた。


(間違えたら死ぬ…!)


 息を吸ったんだったか吐いたんだったか。

 僕の体の重心は今どこにあるのか。

 頭の中から何もかもが吹き飛んだ。


 今僕は何をしていたんだったか。

 僕は何をしなければならないんだったろうか。

 世界を救わなければいけないはずである。




 どうしてヒーローと対峙しているんだろう?




 ホワイトアウトしていく僕の思考とは反比例するように、僕を覆う筋肉は脈動し肥大していく。

 背筋は伸び、間に合わせで構えた両腕は視界の中で世界も救えそうな太さになっている。


「警戒レベルを3A級以上に再設定するように申請してくれ」


 やはりヒーローが沈黙を破った。


「異常な出力のヒーロースーツを着用している。その上、筋構造帯がどんどん膨れ上がって最終到達値は未知数だ。応援はとびきり力が強い奴を頼む」


 ヒーローは、こちらに視線を向けたまま、微動だにせずにそう言った。

 応援が来るのか。

 到着までに何分かかるのだろう。それがタイムリミットか。


 そんな僕の内心はお見通しとばかりにヒーローが言った。


「10分だ!!」


 ヒーローの右足が床を強く踏みつける。


「あと10分で応援が来る。それまでここから逃がさん」


 クラウチングスタートに似た構えにゆっくりと移行していく。

 しかしその視線は一度たりとも僕から外れない。


「お前、何処でそのヒーロースーツを手に入れたか知らんが素人だな」


 どうしてそんなことがわかる。

 なんと正解である。

 成り行きでヒーローと格闘する事になってしまったが、本来僕は平和を心から愛する優しさに満ち溢れた男なのだ。

 非暴力不服従的な何たらなのだ。


「構えがなってない。腹ががら空きだぜ」


 なるほど構えか!

 と、素直でかわいい僕は体勢を低くして両腕を腹の位置まで下げた。





 視界一杯に靴の裏が広がった。





 衝撃を感じる間も無く、気付けば僕は天井を見上げていた。


(速すぎる!!)


 この筋肉達磨の顔面を蹴り上げたのか!

 先瞬愚かにも前傾に構えた状態だったはずが、今はあまりにも情けない海老反りを披露している。もうどうにでもしてくださいとでも言わんばかりの体勢だ。

 どうか美作が見ていないことを祈る。


 唯一救われた点を挙げるとするなら、僕は蹴飛ばされずにその場に踏ん張ることができたところだろうか。

 首から頸椎、胸椎、腰椎と辿って、後ろに回していた左足の先から解き放たれた衝撃は校舎を破壊することを選んだらしい。数メートル後ろで階段が土砂崩れを起こす音が聞こえた。


(化け物かよ)


 如何に筋肉達磨であろうが、亜音速で頭を蹴られれば脳が揺れるし意識も飛ぼうというものである。

 両腕の力が抜け、前方をだらりと舞っているらしいことは辛うじてわかった。


「ははっ、これで飛ばないか。 なんつー重量だよ」


 奇遇だな、僕も同じことを思ってた。と勝手に心の中で返事をするが、僕の声帯も僕の横隔膜も言うことを聞いてくれる奴はいないようだった。

 なんと孤独な戦いであろうか。


 立て続けに腹に数発打撃を食らう。

 強制的に息を吐かされ、床を巻き込みながら後ずさる。

 息を吐くと、次は吸う動作が自動的に始まる。

 すると力が入らないその間に、右から左からこめかみを打たれる。


 息を吸う事すらできない。

 たまらず膝をつくが、視界が上下左右に振り回されてまるでヒーローを捉えられない。

 苦し紛れに正面に拳をふるってもそこに居たはずのヒーローは既に消えていて、今度は下から蹴りが上がってくる。


 強すぎる!

 何も見えない!!


 怒涛の攻撃に対処すらできない。

 全くもって敵わない。

 そもそもその身体を視界に捉える事すら十分に叶わない。

 顔面に蹴りを食らってから1分経ったか経たないかという間に、僕はほとんど完全に制圧されてしまったのだ。


 これがプロのヒーローか。


 正直な話、少し舐めていた。

 テレビやネットで観るヒーローはもっと華々しくて、無駄な動きが多かった。

 技を繰り出す度に技名を声高に宣言し、くるくるひらひらと回りくさりながら殴ったり蹴ったり光線を放ったり。

 平時はテレビ番組に出演し、大して上手くもない食リポをやってみたり芸人やアイドルとコントをしてみたり。

 それが僕の、そして一般市民の知るヒーローの姿だ。


 本質の一端どころの話ではない。

 氷山の一角と言うのでも全く足りない。

 あれらはヒーローの業務の、ほんの一かけらを垣間見ていただけだったのだ。


 そういえばこのヒーローも、戦闘が始まってからただの一回も技名らしきものを発していない。

 テレビではなんたらという必殺技を披露していたはずなのにだ。


 広告戦略というやつだろうか、

 悪人退治の中継を、ある種のヒーローショーのように仕立てていたのだ。

 ヒーローがキャラクターとして確立し、グッズ化などもしやすくなる。


(テレビカメラが到着してないから、こんな強いんだろうな)


 頭を打ちおろされながらそんな風に思った。

 そしてついに、僕は床に伏せさせられた。


 懲りずに起き上がろうとするが、その度に頭を蹴り降ろされる。

 既に色々と剥がれきったコンクリート剥き出しの床が、豆腐のように優しく僕の顔面を包み込んだ。

 こうも頻繁にスキンシップをとっていると、こちらとしても段々意識してしまうというか。

 何だか馴染んできてしまって長年の付き合いであるような気がしてきた。

 もちろんコンクリートの話である。






 ん?

 僕は何か、重要な事に思い至らなかったか?



 閃いた!と言わんばかりに持ち上げた何も閃いていない頭をまた打ち下ろされるが、コンクリートは友達なので痛くないのである。

 いやコンクリートは関係無い。

 そんなことより何か、この状況を打開する重要な何かを掴みかけていた筈なのだ。

 今一度頭を整理したい。ちょっとタイム。もちろんそんな要望は通る訳もないが。

 とりあえず起き上がろう。

 お友達との抱擁タイムはもう終わりだ。


「・・・・まだ動けるのか」


 僕の後頭部を強く踏みつけながら、ヒーローが呟くように言った。

 いつの間にか打撃の雨は止み、横の男から鳴る沸いた薬缶のような音がゆっくりと空間での占有率を増してゆく。

 立ち上がろうと床についた腕や膝はその目的を果たすことができず、反対に床の中へと沈んで行った。


「とっとと沈んでくれよ」


 ダブルミーニングだろうか。

 それなら僕も、お前に対して同じ事を思っている。

 先程からやけに気が合う。もしかしたら生き別れの兄弟だったのだろうか。

 兄がややウケレンジャーは嫌かもしれない。

 ヒーローの方からは、グスグスと吹き出す水蒸気に混じってワイヤーが千切れるような異音が聞こえてくる。


「早くあっちの防火扉の中身を確保してぇんだよこっちは」

「それは………困るな」

「てめぇの事情なんぞ知るかバケモンが」


 僕を踏みつける力が一層強くなる。

 ヒーローから鳴り響く異音も一際盛り上がりをみせる。


「……話し合いをしよう」

「てめぇらを縛り上げた後なら聞いてやる」

「今だ。今なら話し合える」

「ヒーロースーツのパワーを切れ。そうすれば聞いてやる」

「足を退かせば考えてやらんでもない」

「なら抵抗を止めろ」

「なら攻撃を止めろ」


 平行線とはこの事か。

 なんと悲しい事だろう。

 僕の身体はもはや海抜0cmを下回ってコンクリート粉の海でいよいよ埋葬されかかっているし、ヒーローの足元には薄緑色の液体が溜まってこちらに向かって滝を作りつつあり、ジオラマとしてならば中々に禍々しい評価が得られるのではという様相を呈しつつあった。


 学校のチャイムが鳴り響いた。


 唐突に発生したその過剰なまでに重く硬い音は、いかにも今は平時だとでも言わんばかりに堂々たるドヤ顔で校舎中に周き、当然この一階北階段遺跡前をも満たしてみせた。

 我先にと崩れるコンクリートの音も、ヒーローから鳴る水蒸気の音も、

 滴る液体の音も、

 酸素を求めて空気を擦る気道の音も、

 相変わらず増大し続ける僕の筋肉の音も、

 全てを包み、溶かし、希釈して只の含有成分に変えていく。


 最後にはもののついでとばかりに僕の頭の中のぐちゃぐちゃしたゴミ達を洗い流して去っていった。


「整った」

「は?」


 整った。


 僕は気付きを得てしまった。

 整うためには、サウナや半身浴に身を投じ、ヒーリングミュージックを流さなくても良かった。

 コンクリートに身を投じ、チャイムを流せば良かったのだ!!!!!!

 何を言っているのかは僕にも分からない。


 と決まれば、決めてしまえば、後は迷う事は無い。

 このコンクリートに埋まっている状態から緊急大脱出をするのみである。

 世界を救うためならば何だってできる。


 ヒーローの踏みつける圧力は依然として強くなり、僕はもう完全に埋没していた。


 そして、僕はおそらく人類初。






 コンクリートの中を泳いだ。



 バタフライで。

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