絵空事

 レースカーテンを通り抜けてきた陽光にくすぐられ、目を覚ました。伸びをして布団を抜け出し、窓を開け、今日も綺麗ですねと空にご挨拶。彼の一日はこうして始まる。

 土曜日だ。天気予報は曇りのち晴れ、降水確率は20%。それなら高台にでも行ってこようか、という気になった。食パンを一枚、胃に詰め込んで、「高台まで行ってきます」という書き置きを食卓の上に残し、なけなしの小遣いを貯めてようやく買えた一眼レフをたずさえ、彼は家を飛び出した。


 地震があったときの避難場所である高台。見晴らしのいい場所ではあるけれど、普段はほとんど人影がない。それもそうだ。誰も、自分の住んでいる何の変哲もない街を見渡すために、しかも何度も登りはしないだろう。

 あまり高い建物がないこの辺りでは、ここが一番高い。つまり空に最も近い場所なのだ。

 白いペンキが剥げかけた丸木の柵に寄りかかり、流れる雲を、全て一枚きり、しかも一瞬限りである天の絵画を眺めながら、写真を撮る。そうして一日を過ごすつもりだった。


 滑る鳥の影。あんなにも高く飛べる彼らが心底羨ましくて、次に生まれ変わるときは絶対に鳥にしてくださいと、少年はいつも願った。空を飛ばせてくださいと。七夕でも初詣でも、そう願った。

 今日も鳥が飛んでいる。狂おしいほどに恋い焦がれている世界を、悠々と。

 僕にも翼があったらいいのに。ロック鳥みたいな大きい鳥が飛んできて、僕を遥か高みへと連れ去ってくれたらいいのに。子供じみていることは承知でも、そんな夢物語を捨てきれない。

 風が吹く。そうだ、この風がこの身を木の葉のように舞い上げてくれたっていい。そうしたら、一瞬だけでも空の中に――


「……っ」

 奇妙なことに、本当に足が地面から引き剥がされそうなほど強い風だった。雲こそ多いけれど、台風なんて来ていなかったはずであるのに。

 一際激しい風の鎌に襲われ、風圧に耐えかねてすがめた目を再び見開いたときだ。

 眼前、鈍色のタペストリーの中、描かれていたのは――翼を広げ、浮かんでいたのは。


 それは青空のような竜だった。

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