空寂の旅

戦ノ白夜

上ノ空

 電気の付いていない廊下は、少し暗い。4階から更に上へと続く階段を登る人は滅多にいないのだから当然のことだった。

 そんな階段の上には、ぼうと輝く光の窓が佇んでいる。のっぺりとした白塗りの壁を切り取った、光の窓が。

 元々人の少ない南校舎、しかもその4階に、珍しい足音はやけに大きく響いた。タブレット端末を小脇に抱えて軽やかに階段を登りきり、少年は軋むドアノブに手をかける。

 重い扉を開ければ、ぶわっと吹く風。夏の香りを残したその風は、ふわりと彼の黒髪を揺らした。

 上履きを濡らさぬように水溜りを避けて真ん中へ。徐に空を見上げれば、混じり気のない青が一面に広がった。


 思わず漏れる溜息。

 近頃は綺麗な秋晴れが続いているけれど、今日の空の青さは格別だった。鮮やかな青。目に染みる青。吸い込まれるような青。ベタな表現しかできない語彙力が恨めしくなった彼だったが、そもそも言葉で表そうとするのが間違いだとすぐに思い直した。

「今日の空は撮れないね」

 持ってきたタブレットの電源を入れてカメラを起動し、上空を映したが、画面に映るのは薄っぺらい青色でしかなかった。

 二度と同じ空は見られないから、気に入った空は写真として残しておくことにしているのだけれども、一点の雲もとどめぬこの空だけは、切り取った瞬間に死んでしまう。それは空への冒瀆に他ならない。だから、撮ることはできない。本当に今限りなのだ。

 ただ、降ってくるこの青を存分に浴びればいい。果てしなく広がる静寂、美しく自由な世界へ飛び込むような気持ちで。


 ◇


 少年は空が好きだった。

 物心ついた頃から、空を見上げ続けてきた。

 空はどこまで続いているの。空はどうして青いの。空の上には、何があるの。口を開けば空、空、空。誰もが呆れるほど空、空、空。そんなに空が好きなら名前も空にしてあげればよかったわね、と彼の母は口癖のように言っていた。

 いいよ、かけるって名前好きだから。飛んでいけそうでしょ、と言って彼は笑うのだった。


 そんな彼の部屋は、これまで撮り続けてきた空の写真で埋め尽くされていた。

 綿雲を浮かべた空から、虹を描くキャンバスとなった雨上がりの空、月と星の輝きを散らした深い藍色の天蓋、燃える夕暮れの茜空、青から紫、そしてピンクへ変わる薄暮のグラデーション、更にはおどろおどろしい鉛色の曇り空、稲妻に引き裂かれる黒天まで。一番好きなのは抜けるような青一色の空だったけれども、様々に形を変える雲に彩られた空もまた、大好きだった。

 つまり、どんな表情の空でもいいのだ。彼は空の虜だった。空が恋人だった。

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