屋根裏部屋の魔法使い
花空聱丹生
第1話
「お疲れ様〜」
「お疲れ〜、今日もくたくただよお」
同期のジュリスが更衣室に入ってくる。私が声をかけると壁際の椅子にぐったりと座り込んでしまった。時刻は夜の9時半。納期が明日なのに近年稀に見る機材トラブルでこんな時間まで仕事が続いてしまったのだ。
私、シナが孤児院を出て、この“ハーブ印刷所”に勤め始めて今年で2年目になる。大きな機械に始めは慣れなかったが、今ではきちんとやっていけている。
「じゃあね、ジュリス、気をつけて」
「うん、シナもね。バイバイ」
あれから仕事の最終確認と少しの雑談をした。ジュリスに別れをつげ、工場を出るともう路に人の姿は見えず、家の明かりもまばらだ。今日は曇りで、頼りになる月明かりもない。あんまり静かで最近読んだ怪奇小説を思い出してしまった。あれは主人公が誰もいない路地で怪物に遭遇する話だ。例えばこんな場所で...。急に怖くなり、家路を急いだ。
少し息を切らして家に着いた。かなり古いがまずまずのアパートである。孤児院のつてで、格安で住まわせてもらっている。私の部屋には屋根裏部屋があり、これが案外広いので、私は結構気に入っている。大きな天窓がある部屋で、本棚と机と椅子とランプを置いて、休みの日はずっとそこで過ごしている。
鍵を開け家に入ると、上から物音がした。脳裏にまた別の怪奇小説が過ぎる。あれはいつの間にか屋根裏に怪人が住み着いていた話だった。どうにか楽しいことを考えようとするも、最近職場で怪奇小説が流行っていて、恐ろしい話しか思いだせなかった。そんなことはないと思うものの、一度抱いた恐怖はなかなか消えず、不安を解消するためにも屋根裏部屋に行くことにした。
屋根裏部屋へ上る梯子はきちんと収納されていた。それはそれで怖い。梯子を登る足が重い。後ろから誰かに見られているような気がする。何度か後ろを振り返り、いつもの倍以上の時間をかけて屋根裏部屋に登った。
暗い部屋に灯りをつけようとした瞬間、雲がはれ、月明かりで部屋の様子が見えた。天窓は割られており、机と椅子は倒れ、ランプは床に転がっていた。さっき聞いた音はおそらくランプが落ちた時のものだろう。本棚だけは無事だったことにほっとしたのも束の間、月明かりの届かない部屋の隅に人影があることに気づいた。泥棒か、と身構えたが、人影は逃げる素振りも見せず、じっと動かなかった。もしかして死んでいる?いや、窓から床まではそんなに高さはない。恐る恐る近づいても、人影は微動だにしなかった。ランプに火をつけ人影を照らすと、ローブを着て、床に横たわっているようだった。体格からして男性だろうか。顔はよく見えないため、さらに近づき口の辺りに手を当てる。呼吸はしているようで安心した次の瞬間、床につけている膝に、ぬめっとしたものが触った。不審に思い灯りを近づけると、それは人影の腹部から出ているようで....
一拍遅れ、私は悲鳴を上げた。
***
「それで、半べそかきながらうちに来たってことね。
全く、危機管理が甘い!これで相手が気絶したふりで、襲われてたらどうするつもりだったの」
「返す言葉もございません」
あの後、私は怪我人をどうにかするため、フィーネ先生を訪ねることにした。先生は私がいた孤児院の出身で、独学で医師免許を取った凄い人だ。私も小さい頃からお世話になっている。
アパートにある台車を勝手に拝借し、徒歩3分の診療所を訪ねた時、先生は驚いたものの二つ返事で怪我の治療をしてくれた。その後、待合室で待っていた私が、手術を終え戻ってきた先生に事の経緯を説明すると、不用心だと怒られてしまった。
「あの、先生。それで、怪我の具合はどうなんでしょうか」
「ああ、腹部に大きな刺し傷があって、正直助かるとは思ってなかったんだけど、不思議ね、彼、人よりも体の作りが丈夫なのかしら」
顎に手を当てて、考え込む先生。こうなると周りが見えなくなってしまうのだ。そうなる前に話しかける。
「命に別状はないんですね?」
「そうよ。まだ意識は取り戻してないけど、ちゃんと治療したわ。今は診療室のベッドで、ジョッシュが面倒見てくれてるの」
「そうですか、良かった。先生、ありがとうございます」
「まあ、医者だからね。それよりもシナ、あの男の子どうするの」
...何も考えていなかった。
「うーん、そうですねえ....」
その時、診療室の方から何かが落ちる音が聞こえてきた。
先生と一緒に慌てて向かうと、暴れている少年をジョッシュさんが抑えようとしているところだった。
「離せこの野郎!俺は帰らなくちゃいけないんだよ!」
「こんの馬鹿!まだ傷が塞がってないんだよ死にたいのか!?」
「うるせえ!」
「うるさいのはそっちだ!」
ちらっと先生を見ると、ジョッシュさんが優勢だったのでそのまま見守ることにしたようだった。
「全く、あり得ないほど元気な子だね。でももうすぐ麻酔が切れるはずだから痛みが戻って大人しくなるはずだよ」
先生が呆れながら言うと、ちょうど少年が腹部を抱えて呻いた。
「痛った...」
「ほら言わんこっちゃない。怪我人は安静にしてなくちゃいけないの。傷口が開いたらもっと痛いわよ」
先生の言葉に、少年は渋々頷いてベッドに横たわった。
「痛み止めの薬、処方しておくわね」
「いらない」
「いらないって、あなたねえ」
「大丈夫なんだ、本当に。この怪我もすぐ治る」
呆れながら言う先生に、少年は青い顔で返す。でも不思議と言っていることが嘘だとは思えなかった。先生も同じことを思ったようで、渋々少年に言った。
「わかったわ、好きにしなさい。ただし、これ以上悪くなるようだったら、その時はちゃんとお薬使いますからね」
少年は小さく頷いた。
それから、私は少年のことが心配で、明日が休日ということもあり診療所に泊まることにした。
微かな物音がして、私は目を覚ました。外はまだ暗い。どうやら日の出前のようだった。不審に思い待合室に行くと、ドアが少し空いていた。外に出ると、黒いローブを着た少年が箒に跨っているところだった。人が箒に跨っている、この光景から私が出せる結論は一つしか無かった。
「あなた、魔法使いなの!?」
思わず口から言葉が飛び出る。だってそうなのだ。小さい頃に絵本を読んでから魔法使いはずっと大好きだった。
私がそう言うと、少年は険しい顔つきになって此方へ寄ってきた。その時、急に視界が変わった。
「お前、何処の差金だ。俺を殺すように言われて来たのか」
間近に少年の顔があった。背中に鈍い痛みが走る。どうやら私は地面に倒され、刃物も突きつけられているようだ。敵意が剥き出しの眼孔、しかしその瞳は夜空を閉じ込めたような美しさがあった。
「...おい、何か言え」
黙っている私に痺れを切らしたのか、少年は先ほどよりも語気を強めて問いかける。私はぼんやりと彼の瞳を見つめながら、ため息を漏らすように答えた。
「あなたの瞳、とても綺麗ね」
「っな、ふざけたことを!」
少年の顔が赤くなる。怒りなのか恥じらいなのか、その時の私には判別がつかなかった。ただその瞳を見つめていたい、その一心だった。
「ふざけてなんかないよ。ただ、あなたの瞳を見てしまったら冬の夜空でさえも裸足で逃げ出すんだろうなって思っただけ」
「っつ!もういい、お前のような奴が人を殺せはしないだろう」
そう言うと、少年は私の額に手を当てた。
「悪く思うな。これはお前のためでもあるんだからな」
そして、なにやら呪文のようなものを呟いた。もしかして私に魔法をかけているのかな、とワクワクしたが、なにも起こらない。少年も困惑した顔をしていた。
「お前、どうして眠らないんだ」
「どうして、って言われても私にはなにがなんだか」
「...まさか」
そう言うと少年は立ち上がり、私に背を向け、また別の呪文を唱えた。少し待ってみても何も起こらない。そのうち少年はふるふると体を震わせ始めた。私も立ち上がって、彼に聞く。
「...あの、大丈夫?」
それを聞いて、少年は此方を振り向き、ツカツカと寄ってきた。
「大丈夫なわけあるか!おい、やっぱりお前が何かしたんだろう、そうでなければ」
堪えきれないというふうに少年は一旦黙り、また震えながら口を開いた。
「そうでなければ、なぜ俺は魔法が使えないんだ。俺は帰らなければいけないのに」
弱々しい声で言う少年が、なんだか可哀想に見える。そういえば昨夜も帰ると言っていた。どんな理由があるのかはわからないが、彼の力になりたいと思った。
「じゃあさ、うちにおいでよ」
少年が力なく私を見る。その瞳は先ほどと変わらず美しかった。
「あなたの帰る場所はわからないけど、今の時代、列車も飛行船もあるしさ、帰るお金が貯まるまでうちに住んでいいよ。あなたが落ちてきた、でいいのかな、屋根裏部屋使っていいからさ。だからさ、そんなに落ち込まないで」
少年は大きく目を見開いた。見つめ返すと今度はそらされた。
「本当にいいのか?俺はあんたに酷いことをしたのに」
ぼそぼそと小さい声で訪ねる少年。
「いいよ。そのかわりさ、一つお願いきいて」
「...内容による」
「あなたがうちにいる間に魔法が使えるようになったらさ、なんでもいいから私にあなたの魔法を見せて」
「...そんなことでいいのか」
「そんなことって、私の小さい頃からの夢なのに」
そう言うと少年は少し笑った。存外、彼の顔は整っているのだとようやく気づいた。
「善処する。俺は、そうだな、イアンと呼んでくれ」
「私の名前はシナよ。よろしくね、イアン」
朝焼けの中、私たちは握手を交わす。
この時は150年前に消えたはずの魔法使いがなぜいるのか、という疑問は本物に会えた興奮で浮かんではこなかった。
屋根裏部屋の魔法使い 花空聱丹生 @lily2230
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