カラス

「嫌だ。またいる」

 ベランダの手すりにカラスが留っていた。一昨日から目につくようになったそのカラスは、ベランダで羽繕いをした後、暫くして飛び去って行った。

「ああ、糞が落ちてる」

 手すりからグレーの目隠し板にかけてべっとりとカラスの糞が広がっていた。

 バケツに水を汲んで、急いでカラスの糞を掃除しに行く。不潔さに鳥肌が立った。

「カラスって病気を持っていたりしないわよね?」

 鳥インフルエンザの大騒ぎが思い起こされる。ビニール手袋越しであっても雑巾に触れるのがいとわしい。


「管理人さんに言ってくれた?」

 夕食を囲みながら夫に尋ねた。わたしは口下手なので、こういうことは夫に頼ることが多い。

「うん。他でも苦情があったらしい。市と相談しているところだそうだ」

 市で駆除してくれないかしら。カラスは頭が良くて、自分を虐めた人間を覚えているらしいから、下手に恨みを買いたくない。

「見掛けても手を出さないでね。狙われたら嫌だから」

「ああ。放っておけば人を襲うことは無いだろう」

「なんだってマンションの8階にまで飛んでくるのよ!」

 わたしは思わず夫に不満をぶつける。昼間、嫌な思いをするのはわたし一人なのだ。

「知らないよ。そのくらいの高さなら普通に飛んでるんじゃないの?」

 山の上まで飛んで行くくらいだからと、夫は早くもこの話題に蓋をしたいようだ。

「そうじゃなくて、わざわざうちのベランダまで来なくていいじゃないって話よ」

「巣を作っている訳じゃないんだろう?」

「とんでもないわ! 巣なんか作られたら部屋にいられないわよ」

 近所に巣があるだけでも嫌なのにと、わたしは腕を抱えて身震いした。

「カラスさんがいたずらしに来るの?」

 娘の亜理紗が話に加わる。とげとげしい雰囲気が気になるのだろう。

「そうなの。おうちのベランダにいたずらしに来るのよ」

「そしたら亜理紗が『めっ!』てしてあげる!」

 お箸を握りしめて、亜理紗がカラスを叱る真似をした。

「ありがとう。でも、カラスを見ても何もしないでね。カラスは虐めた人に仕返しするから、恐いの。わかった?」

「うん。わかった!」

 亜理紗の闖入で話の流れが変わった。夫はこの時とばかり、食事を切り上げて晩酌を始めた。

 わたしは燻る不満を抱えながら、食事の後片付けに立った。

「ときどき管理人さんに聞いてみてね」

「……うん? なんだって?」

「カラス駆除の話よ。どうなったか聞いてみてね?」

「ああ。週末にでも聞くよ」

 夫はテレビ画面でおどける芸人の姿に笑い声を立てながら、晩酌のグラスを傾けた。

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