理科室

瑠璃立羽

君は大丈夫

放課後。オレはいつも通り、理科室の扉をガラガラと空けた。

部屋の中を見渡すと、その隅に西日に照らされた女生徒が一人、何かを熱心に見ていた。


「おいおい、またかよ……」オレはぼやき、ぺたぺたとスリッパを鳴らしながら中に入った。


「んなモン見て、何が楽しいんだ?」オレは目の前のさらさらした髪をひとつくくりにしている女生徒──日比谷に声をかけた。


「だって不思議なんだもん」日比谷は大きな瞳で、カエルのホルマリン漬けをにらみつけながら言った。


「死んでるのに、まだ形を留めていることが」







日比谷はオレが理科室に行くとたいていいる気がする。


最初に会ったのはいつだったろう。


ある日の放課後、オレがいつもの通り理科室の扉を開けたら、中に日比谷がいたので驚いた。

「先生」日比谷はたいして驚いた様子もなく、オレをじっと見た。「なにしに来たの?」


「なにしにって……オレは理科教師だし、生徒が理科室で変なことしないように見張りをだな……」

「うそだ」日比谷は顔色ひとつ変えずに、オレの白衣のポケットを指さした。

「それ。吸いに来たんでしょ」


慌ててポケットを触ると、角張った箱の感触。オレがさっき、こっそり持ってきたタバコの箱だ。


「やっぱりね。どうりで、ここちょっとタバコ臭いなって思った」

「えっいっつも窓開けて吸ってるからそんなはず……じゃなくて! えっと……こ、このことは……」

「いーよ。黙っててあげる」

日比谷は少しだけ口角を上げた。


「その代わり、私がここにずっといても怒らないでね」





それ以来、ほとんどの放課後で日比谷と会うことになった。


オレがタバコを燻らせる間、日比谷はホルマリン漬けを眺めたり、標本を一つづつ丹念に見て回ったり、人体模型をばらばらにしてまた組み立てたり、骸骨標本を何かを確かめるように触ったりしていた。その行動には不気味なものを感じないでもなかったが、どちらかというと好奇心が強いように思った。


でもいつもこんなんじゃ、クラスでも浮いてんだろうな……。そう思い、それとなく日比谷に聞いてみたことがある。


「ガッコーは楽しいか?」

「全然」日比谷は即答した。


「だってバカばっかりだもん。ていうかみんなガキ。なんていうか即物的過ぎない? みたいな。勉強もつまんない。私たち箱の中に集められたラットみたいじゃない? 自由もないし、なんか外から誰かに観察されてる気がするの。先生も私たちを観察してるんでしょ?」


日比谷はそう一気に言って、大きな瞳でオレをじっと見た。


実験対象のラット。日比谷の鋭い例えに、オレはたじろいだ。

確かに生徒達を見て、「こいつらこことその周辺の世界しか知らねーんだろうな」とか「なるほど、力関係とかあんだな。おもしれー」とか思ったことはある。それが、知らず知らずのうちに上から目線というか、生徒達を別の生き物として見てたところはあるかもしれない。



大人になると、ときどき忘れそうになる。オレ達にも子供の頃があったんだってことを。





日比谷はまだホルマリン漬けを眺めている。そんな不気味なもんをよく眺めてられるな……とオレはタバコを咥えながら日比谷をぼんやり見ていた。

すると、ふいに日比谷が振り返った。


「先生」

「お? んだよ?」

「死んだら、なくなっちゃうんだよね」

「は?」

「体」


日比谷はちらりと自分の体を見た。セーラー服から伸びる腕や足はまだ細く頼りなく、まだまだ成長の伸びしろがあるんだろう。


「私の体もなくなるんだ」

「んー……まぁ、な……」

オレが言葉を濁すと、さらに日比谷が聞いてきた。


「土に還るの?」

「まぁ……骨以外はな……。あ、でも日本は土葬禁止だからな。火葬しかできねーからな」

「いや。私土葬がいい」

「……なんでだ?」

「わかんない。……なにかの養分になる方が、灰になるよりいいじゃない……」


日比谷はぽつんとつぶやいて、うつむいた。


「あのなぁ。お前まだ十四歳だろ? 死んだ後のことばっかり考えてんじゃねーよ。生きることを考えろよ、将来とかさ」


オレは呆れて、日比谷に言った。我ながらかなり教師っぽいことを言った気がする、と悦に入りかけていたとき、日比谷がこちらをきっと睨んだ。


「先生は考えたことないの?死んだ後のこと」

「そりゃあ、この歳になりゃ考えないこともないが……オレがお前くらいの頃は、もっとちゃらんぽらんだったぞ」

「そっか、そりゃわかんないよね……私の気持ちなんか……」


日比谷の瞳は少し潤んだ。


「この先生きててもなんも面白いことないって思うの。クラスでも家でも私は幽霊みたい。いてもいなくてもどっちでもいい。それならいっそのことって思うんだけど……私がなくなっちゃうのも、怖い」


日比谷は自分の体をぎゅっと抱きしめた。


「でもあのカエルみたいに、標本の蝶みたいに、体が残るのも不自然だと思うの。あれは、人間が動物の体を観察するために、残すためにやったわけでしょ。あんなふうに見世物になるのもいや。私、私……」

「あのな、日比谷」

オレが声をかけると、日比谷はやっとこっちを見た。怯えたような瞳に、吸い込まれそうになる。


「人が死んだら、他の人の記憶に残る。記録にも残る。全部なくなるわけじゃねーんだよ。だから、死んだ後のことなんか―」

「先生」

心配しなくていい、と言おうとしたが、途中で遮られた。

「じゃあ、もし私が死んでも、先生は私のこと覚えておいてね」

そう言って、日比谷は少しだけ笑った。……その声は震えていた。


危うい。


オレは思わず顔を覆いたくなった。


今まで散々いろんな生徒を見てきた。だからわかる。ガラスの十代とはよく言ったもんで、この年頃は割れたガラスのように脆く鋭く、その鋭さは自分も他人も傷つけてしまう。そして現実世界と妄想世界の境目があやふやになり、簡単に一線を越えてしまう。


だからこそダメなのだ。こっち側に引き戻さなきゃならない。


気がついたら、日比谷の折れそうな腕を掴んでいた。


「せん、せい?」

「ダメだ。お前は……生きなきゃダメだ」


思ったより硬い声が出て、自分でも驚いてしまう。


「どうしたの……?」


日比谷が首を傾げる。その怪訝そうな顔になぜかこっちが焦ってしまう。


「っ、だからその……あーとにかく! 今は死ぬんじゃねーよ!! オレが夢見悪くなんじゃねーか!! だからお前は死にたくなっても、せめて十年は待て!! その間になんか起きるかもしんねーだろ!!」


オレの必死の説得にしばらくきょとんとしていた日比谷だが、やがてくすくす笑い出した。


「なんか、先生らしーね。夢見悪くなるって、フツーそんなこと言う?」

「う、うるせーな。オレ、くさいこと言うの苦手なんだよ。熱血教師じゃねーんだから」

「だいたい私、自殺するなんて一言も言ってないし」

「はぁ!? ったく、減らず口叩きやがって」


手を離し、がりがり頭を搔くオレに日比谷は笑いながら言った。


「でも、ありがと。そうだね、考えてもどうしようもないね。死んだときのことなんか死んだ人しかわかんないし」

「おぅ、そうだぞ。精一杯生きろ」


そう返しながら、オレは安心して日比谷の笑顔を見ていた。






その日から、日比谷が理科室に来る回数は少しずつ減っていった。

来たときもいつもみたいに素っ頓狂な話をあまりしなくなり、最近できた友達のことをぽつぽつと話すようになった。そして忙しくなったのか、ある日ぱたりと来なくなった。


オレはタバコの煙を吐きながら思案する。

これまで、いろんなやつが放課後この理科室に来て興味深そうに標本を覗きホルマリン漬けを眺めた。日比谷だけじゃない。日比谷みたいに何かに行き詰まり、どうしようもなくなったやつが定期的に来るのだ。二年に一度くらい。


二十年も教師をやってると、そいつらが何を言って欲しいのか、何で悩んでるのかだいたいわかってくる。だからオレは、それを嗅ぎ分けてそいつらをこっちに引き戻す。それが、熱血教師ではないオレの役目なのだ。ここにそいつらが来なくなったらオレの役目は終わり。あとは心配しなくてもなんとかやっていくだろう。


若さってのは偉大だな。オレはつくづく実感する。何度でもやり直しがきく。今は危うくても、だんだん強くなってこちら側で生きていくようになれるのだ。それだけの力を、若いやつらは持っている。……オレは、それが少しだけ羨ましい。



「悩んでんのはお前だけじゃなかったんだぞ、日比谷」



そうつぶやいた声は、煙と一緒に消えていった。

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