これを優しさと呼ばないのなら過ちでもいい

尾八原ジュージ

兄と

 兄が文字通り身体を切り売りし始めてから三年と十か月が経った。もう胴体の中身はスカスカだし、左腕と両脚は付け根のところからなくなってしまった。左目はとっくに売り払って眼窩は空っぽのままだし、歯もずいぶん少なくなった。ベッドの上から自力では下りられなくなり、それでもまだしぶとく生きている。

 俺が帰ったのを聞きつけると、兄は右手で呼び鈴を何度も何度も鳴らして呼ぶ。「聞こえてるよ!」と怒鳴ると、小さな家だからすぐに声が届いて静かになる。そして翌日も同じことを繰り返す。きっと不安になるんだろうなと思いながら、俺はゆっくりと手を洗う。

「今日、残ってた小腸をまた半分くらい売っちゃった」

 兄はベッドの上でへらへら笑いながら言った。俺は「ふーん」と言いながら排泄物を始末してやり、枕元の吸い飲みを入れ替えてやる。

「お前の小腸、だれが何のために買うんだろうな」

 そう言うと兄は「知らん」と言う。知らんけれども売ってしまうのだ。頬肉をごっそり削られた穴から、痩せた歯茎が見える。

「それで、その金で今度は何を買うんだ」

「まだ決めてない。何も見つけてないから」

 兄は答えた。兄が右手を残しているのは、おおよそネットオークションをするためと言ってよかった。そこで兄は日がな一日、親父の遺品がないか探している。かつて自分のせいで失った父親の形見を取り戻そうとしているのだ。父が亡くなってから十年、母が亡くなってからは四年近くが経とうとしている。

「親父の眼鏡がないかなぁ、鼈甲のやつ」

 モニターを注視する姿を、俺は「知らん」と言いながら眺めた。

 赤ん坊の離乳食みたいな食事を運んでいってやったときも、兄はまだモニターを眺めていた。口から食ったものが頬の穴から出て行かないように、首を傾けて食事を済ませる。量などあまり食べられたものではないから、兄の食事が終わるのは早い。

 食事をすませると、俺も一緒にパソコンの画面をのぞき込んで、親父の持ち物に似たものを探した。同じものかどうかはわからないけれど、それらを買い集めることが今の兄の生き甲斐なのだ。

「この眼鏡似てないか」

 そう言ってふと兄を見ると、兄はモニターではなくこちらを見つめていた。ぎょっとしている俺に「お前、出てっていいんだからな」と言った。

「……いや、大丈夫」

「そうか」

 出てっていいんだよ、という表情をくっつけたまま、兄は視線をモニターへと戻す。

 母が自分の持ち物と父の形見を片っ端から売ってこしらえた金は、兄がばかみたいな理由で作った借金のために消えてしまった。その母が死んで、そのときかつて一度もやったことのない反省というものをとうとうやったせいだろうか、今度は当の兄がおかしくなった。

 兄はこれが父と母のためになると思ってやっている。もちろん死んだ人間と答え合わせをすることはできない。兄は昔から馬鹿で間違いばかりやらかす男で、とにかくものを深く考えることが苦手だ。

 その兄が突然「お前にはほんと苦労ばっかかけてごめんな」と俺に言う。そういうしおらしいことを口に出すのは、珍しいなと思った。

「気持ち悪いなぁ」

「ごめんな」

 俺は何も言わない。「いいんだよ」も「謝るくらいから最初っからやるんじゃねぇよ」も言わない。俺だってどうしてこんなところで兄の世話をしているのか、自分でもよくわからなかったりするのだ。

「おれ、今度の日曜日に残った方の目を売るんだ」

 兄が言った。

「じゃあネットできなくなるな」

「うん、でももう売れるもんがあんまりないから仕方ないんだ。そのうち心臓を売って全部おしまいにするよ」

 そしたらまた金がちょっと入るからお前にぜんぶやるよ、とろれつの回らなくなってきた舌で兄が言う。

「本当ごめんな、ぜんぶごめん」

 発作みたいに何度も、ごめんごめんと謝られた。

 俺は何も言わなかった。ばかだなと思った。それでもこれが最大限兄の示せる俺への気持ちなのだと思うと、単にばかだなで片付けてはいけないような気がした。それだけの情はあった。

 物思いから我に返ると、兄がひどく唸っていた。

「痛み止めが切れてきた」

 額にはぽつぽつと汗が浮かんでくる。今日小腸を抜かれたあとの傷が痛むのだ。

「薬は?」

「あるよ。あるけどいらねえんだ」

 兄はネットを止め、右手をがっくりと下ろす。「おれは死ぬ前にうんと苦しまなきゃならないんだ」

「さすってやろうか」

「いいってば」

 いらんと言われるのを無視して俺は兄の額の汗を拭き、腹を撫でてやった。兄はしばらく呻いていたが、やがて力尽きたのか赤ん坊のように眠った。

 このまま殺してやるのがほんとの優しさなのかもしれないな、と思った。それでもそうしないのは、それもまた優しさなのかどうか。よくわからない。

「今度旅に出ような。おれちょっと金が入るんだ」

 兄が寝言を言った。俺は兄に聞こえるだろうかと思いながら「そうだな」と返した。もちろんこんな身体の兄を連れて旅ができるはずもないのだが、ほかにどうしたらいいのかわからなかったのだ。ただ兄にはもうちょっと生きてほしかったし、どうせ何もかも無理なのだから旅行計画くらいは好きに夢見させてやりたかった。俺だって優しさをはき違えてるのかもしれないが、それでもよかった。遠からず兄は死んで、そしたら俺はこの家にひとりぼっちになる。それまでせいぜい俺のやり方で付き合ってやろうと決めていた。

 兄がいびきをかき始めた。俺は兄の枕の下からそっと鎮痛剤の袋を引っ張りだし、吸い飲みの水の中にこっそり溶かした。

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