第三章:幽霊船の夢②
軌道のみがあって、そこに物体は存在しない。
いや、目には見えない何かがあるのか。
目に見えない何かを、あると名状するのか。
「確かにあそこには何かがいるはず。ただ、あたしたちが見えてないだけみたいね」
「怪しいですね」
どうやらこの世界には魔術はないらしいが、不可解な現象は多いようだ。
「私はどうすれば?」
「うーん。触りに行ってみようか」
「大丈夫でしょうか?」
「平気だって」
未紅は“あるはずのもの”にゆっくりと近づき、触れた。
「うん。何もない」
「そうですか」
特に何か起きそうでもない。
だが、まったく関係性がないわけでもなさそうだった。
困った。このままでは私たちは、何かが起こるまで待たなければいけない。だがそれでは手遅れなのだ。
何も起こさない保証はどこにもない。
「どうにかして取り除きたいですね」
そのとき、未紅が振り向いた。
「未紅?」
「何か来る」
未紅はまっすぐ何かを見据えている。
「軌道が見える。すごく細い…しかも速い!」
拙な、私は意図的に持っていた経口補水銀を地面に垂らした。
地面に広がった水銀はすぐに壁となって私たちの全方位を覆う。
「どっちですか?」
「あっち」
私は言われた通りに水銀を集中させようと試みた。
だが次の瞬間、水銀のドームの中ですさまじい音が鳴り響き、同時に衝撃が襲った。
私たちはドームの向かい側に吹き飛ばされ、衝撃で半壊状態のドーム内では大きな共鳴音が鳴り続けていた。
「うるさ…」
私は急いでドームを解除した。耳鳴りが酷い。
それにしても…未紅の言う“軌道”の速さ、そしてこの衝撃、轟音。
心当たりはあった。
「音波を使った攻撃…なのかな」
「分かりませんが、それに近い何かです。音が関係していることは確かです」
「次の攻撃も警戒しておかないと」
私たちは次の襲撃を待った。
するとまた同じ方向から、同じような振動を感じた。
全身の細胞が、その微細動で粉砕されてしまうかのような奇音。怪音。
私は手を前に出す。呟くように唱えた。
「水銀魔術…」
今度は一枚の水銀の壁を築く。ただそれだけではなく、水銀の粒子ひとつひとつをまた“振動”させることで、迫る怪音波を相殺する。
成功だ。やはりこの攻撃の正体は“音”。
だが、こんなに奇妙な音波は経験したことがない。音波は何かを中心に同心円状に広がっていくものだが、今この音波は光線のように一直線に飛んでいる。
そして驚くべき破壊力。音で何かを破壊するのは容易いことではない。それに加えて私は、さっきの攻撃で更なる異常を感じた。まるで私の水銀の粒子同士の結合を、強制的に破壊してしまうかのような“壊音波”。分子間力、ミクロな範囲にまで非常に強力な影響を与える見えない刃。
「一体誰が…」
そのとき、未紅がポケットから何かを取り出した。
「それは?」
私の質問に答えることなく、彼女はそれを目前に投擲した。
薄い円盤は確かに飛行し、ある一点で静止する。しばらくすると手元に戻ってきた。音はいつの間にか止んでいた。
「それは?」
私がもう一度尋ねると、ようやく彼女は答えた。
「私があの“軌道”の力に目覚める前からあったやつよ。一体何なのかは分からないけど…」
よく見るとそれは、CDのようだった。
刹那、また妙な耳鳴りを感じる。
分かってきた。あの壊音波には前兆がある。ただし、私たちが音速を超えて逃げられるかは別だ。
すると未紅はCDを顔の前に翳した。そしてそのCDは僅かに光り、進んできていたはずの音波を無理やり打ち消した。
音同士が衝突し、風が吹き荒れる。
「簡単な能力、《保存》。このCDには何かを保存できる。今まで私が試してみて、入れられなかったものはない」
「へえ…すごいですね」
私の世界にもない異能だ。いわゆる「模倣」の能力は存在したが、完全な保存というのは稀有だ。それにその汎用性、私の世界にいたら、確実に兵器として転用されるであろう人材だった。
「それより、相手は誰よ」
敵は正面から現れた。
超人的な脚力で群れる木々を飛び越して、私たちの前に降り立った。
そして意外なことに。
「…………」
灰色の目が狙う。
そう、彼女もまた、私たちと同年代の少女だった。
「ここに長居はしたくないのだけれど」
「あたしだってそうよ。それで…」
未紅は口を噤んだ。
敵は、両端が捻じれて、複数に枝分かれしたような見た目の杖を持っていた。おそらくあれが、壊音波の源。
更に加えてあの超人的な能力。私の世界準拠ではあるがあれは「魔術師」というより「魔導隊」のようだ。兵士とも違うあの奇妙さ。それもあの杖のせいだろうか。
いや待て。そもそもなぜこの世界に杖がある?杖は魔術師しか持ち得ないはず。この世界にも魔術を使う方法が…いや違う、魔術ではないのか?だとすれば魔法?
「ようこそ。私のNIGHTWAVEへ」
少女は杖を掲げる。
何かが渦巻く。
そして放たれる。
私は未紅を見る。
「未紅?」
彼女は呆気にとられていた。
まるで何かに怯えるような、恐れるような目で現実を直視していた。
以前までは、我こそが百獣、三千の生の王であるかのように悠々と構えていた彼女だった。しかし今、何故かその勇猛は絶たれている。
「水銀魔術」
もう一度。
あの方法で防げば助かる。
「いや、もう助からない」
音波は迂回してきた。
まさか。いや、まったく予期していなかったわけではない。ただそれを認めるのがあまりにも愚かなだけだった。
相手が直線的にしか攻撃できないと誰が判断できた?しかしそうでなければ、彼女は全能だ。音という超高速の破壊兵器が、もし全能なのであれば。
私たちに勝ち目はない。
「いえ、あります」
知らない人の声だ。
今まで出会った、どんな人の声でもない。
幼いようで、大人びた。天界に囁く春風のような美しい音の流れ。
それだけが、今の私に表現できる限界。
緑色の髪が視界に揺れる。
「the End TO Be silent.」
その言葉と同時に、音は消えた。
否、壊音波は全方位に向けて反射された。
少女はもう一度杖を掲げ、反射された音を打ち消す。
この間僅か数秒。何が起こっているんだ?
「立ち去ってください、藍端。ここがあなたの全能の範疇であっても、あなたが刈り取っていい花園じゃない」
「それでもいい。そこにいる魔術師に興味がある」
魔術師?
まさか、私の素性が割れているのか?
そんな馬鹿な。私がここに来てまだ数日だ。私の存在にいつ気づいた?
それになぜ魔術師を知っている?この世界の人間は魔術師など知らないはずだ。
緑髪の少女は私の前に立ち、阻む。
「彼女の正体が何者であっても、あなたがこの子たちを襲うのであれば、私の全能力を行使してあなたを…」
「言わなくてもいい。君の手にかかるなど、死ぬより恐ろしいことだ。今は手を引こう。これは協定だ。夢の世界の出身よ」
彼女は再び遥か彼方へ飛び去って行った。
「出身ではないんだけどな~」
突然、先までの雄とした態勢を崩し、相応の振る舞いに変わった。
緑髪の少女、少女といっても私たちより年上だが、彼女は私たちのほうを見て言った。
「大丈夫?」
「ありがとう。助けてくれて」
そう返す未紅の顔を深刻そうに見つめる。
「大変だったでしょう。でも私の目的はあなたたちを助けることだけじゃないの」
「そうなんですか」
彼女の正体も気になるところだが、今はおいておこう。まずは事実の確認が先だ。
「私はあなたたちにメッセージを伝えにきた。あなたたちみたいに異能の力を知っている者、そしてそれを行使できる者はこの世界に少ないけれども存在する。例えば、彼女とか私とか」
「あなたのさっきの力は?」
「それはまた今度。それで、あなたたちにも協力者がいるの」
「にも?」
「あ、ええっと。さっき来た女の子は刺客の一人でしかない。複数人であなたたちを狙っている」
「どうして?」
「さあ、私にあの子たちの思想は理解しがたいから分からない。でも、あなたたちにも味方はいる。例えば…そうね。ルディアさんがここに来る前に出会った紫髪の男の人とか」
ああ、今でも鮮明に覚えている。
私の転生の鍵を握っているだろう人物。この物語を始めた張本人。身元不明、目的不明の男。
私が何となく親近感を覚えた誰か。
「その人からの伝言で、《花園に堕ちる幽霊船を探せ》だそうよ」
「花園に堕ちる…」
私はふと疑問を抱いた。
「すいません、もう一度言っていただけませんか?」
「うん。《花園に堕ちる幽霊船を探せ》って」
花園に“堕ちる”?
「その言葉、確かですか?」
「うん」
「だとすれば、幽霊船は既に堕ちているものではなく、これから堕ちるもの」
「たしかに」
未紅が頷いた。
「まだ幽霊船は巡行を続けている、ということだけれど、見つけるのは墜落、沈没した幽霊船。なら、先に落下地点を見つけてそこで待つ、ということでしょうか」
「ごめんなさい。私は彼の言葉について詳しいわけじゃないの。本当にただ、伝えるだけ」
「連絡手段は?」
「…ないよ」
緑髪の少女が少しだけ間を置いたのを見逃さなかった。
ある、か。
彼女は私の転生の謎を探るために必要なキーパーソン。もしもそうしなければいけないなら…。
「「拘束してからの尋問も辞さない」」
「って?」
緑髪の少女は、ずばり私の言おうとしていたセリフを当てて言葉を重ねた。
未紅は唖然としている。
「それじゃあまた、どこかで」
含みのある口ぶりで、公園の奥に消えた。
私としたことが、あまりの衝撃にしばらく閉口したままでいた。
それはもはや、恐怖とすら言える感情だった。
私が元居た世界では、私は最上級の魔術師で、次代ウィザード・マーキュリーを襲名した。
それでもなお彼女を目前にして、私は確信した。
勝てない。
それは私や、師匠でさえ届かない「魔法の先にある何か」だった。
あの壊音波を反射した謎の技。それも含めて、全く……。
「まーた考え事してる」
未紅がいつの間にか私の正面に回り込んでいた。
「あの人、昨日のヤツと違って優しそうだったじゃん。多分いい人だよ」
「だといいですけど」
「じゃあ訂正するね」
未紅は私に顔を近づけて言った。
「絶対、良い人だよ」
なんのきっかけもなく、二人で空を見上げた。
「あれは…」
ああ。そうだ。
きっとあれが。
「幽霊船なのかな」
虹色の尾を引いて、薄暗い雲の中にシルエットを浮かべている。
地上から光が集まる。地上に散らばる何かを回収しているみたいだ。
興味が湧いてきた。
あらゆる衝撃を通り越した先の興奮が。
その正体は好奇心だった。
「私って、こんな人だったっけ」
「え?」
不思議な感覚だ。
全く違う世界に来て、全く違う価値観を抱いた。
それは何か。一体、この新しい“視点”の正体は…。
「探しに行こうよ!」
未紅が手を引く。
「幽霊船、追いかければ分かるかも!ほら!」
私は未紅に手を引かれる。
「そうですね。ぜひ」
たったこれだけの経験だとしても。
それは私にとって、当時、大切な何もかもだったのです。
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