第二章:巡り合う星の名は②

 日が落ちてしばらく。

 彼女は来なかった。

 少年のご両親も心配しているだろう。

 それでも、どうするべきか分からなかった。

 かつて大勢の人を一度に救ったことはあるが、今目の前にいる少年は救えずにいるのだ。

 無力だ。

「裕君、眠いですか?もし眠かったら、私がここで見張っているので、寝てもいいですよ。寝心地は悪いでしょうけど…寝具は用意しますよ」

「だいじょうぶ。待つ」

 待つにしても限界がある。“子供”の力には限界がある。

 皮肉みたいだ。

「あれ、ルディア…さん……」

 裕君が指さす先から、足音が聞こえる。

 来てくれたか?

「未紅ちゃん!」

 すると、次の瞬間、私の真横を何かが通り過ぎて行った。

 細い何かが。

 咄嗟に振り向くと、裕君が黒色のワイヤーにがっしりと巻きつけられていた。

「裕君」

 判断は早かった。

 使いたくはなかった。

 これを誰かの前で使うことは、もうないと思っていた。

 だが魔術の性能が大幅に低下している今、これを使わざるをえない。

 こっちなら、今でもそれなりの出力で発動できるはずだ。


「“水銀魔術、抽出開始”」


 私は顔を下に向ける。

 左目から、水銀が漏れ出す。

 涙のように、一条の血の流れのように。

 そして流れ出した水銀が、私の操る魔物。

 再び前を睨む。

 水銀が草陰に飛びかかった。

 基本的には流体の水銀だが、多少温度を変えれば急激に固体に変化する。その状態変化を利用して相手を切断したり、攻撃を防いだりできる。

 また、相手が生物であれば液体水銀を無理やり体内に流し込んだり、有機水銀を強制的に体内に送り込むことにより、化学的に人体を“破壊”できる。

 だがまだ殺すつもりはない。

 とりあえず、私の内心から湧き出る“特殊な正義感”に従って、確保から。

 しかし、突き出した水銀の先に当たった感覚はない。

「その少年を差し出せ」

 まさか。

 それか、やっぱり、とも言えるだろう。

私の水銀魔術が、機能していない。

 そういえば、さっきもそうだった。

 裕君に指輪をあげようとしても、なぜか凝固しなかった。

 何かがおかしい。

 咄嗟に汎用魔術に切り替える。

― 汎用:火焔型。領域設定、確保。抽出量最大、インターフェース:皮膚、形式:脳内象形。―

 全身が燃え上がる。

 服に関しては結界で守られているので大丈夫。

「そこにいるのがどなたかは知りませんが、この公園が火事になる前に、姿を見せたらどうですか?」

 すると意外にも、相手はあっさりと正体を現した。

「戦う気は最初からないのだが」

「では、何をするつもりで?」

 出てきたのは、黒いロングコートの男性だった。

 髪は青く、目は黄色い。背丈は高く、棒のようにそこに立っている。

 心当たりはない。誰だ?

「お名前を伺っても?」

「無いものを聞かれても困る。それより君のその、不思議な能力について聞きたいことがある。が……」

 男が一歩前に出る。

「その少年を探していた。迷子なのだろう?安全は保証する」

「どうして私が、あなたを信じられると?初めて会った他人に、子供を任せるなどと…」

「戦うつもりか?」

 この世界は、魔術も魔法も存在しない。

 であれば、十分に勝機はある。

 だが、あの少女のようなイレギュラーの存在、そして高度な文明…すくなくとも、スマホを生み出すだけの科学力を持つ人々。何が起こるかは分からない。

「炎の異能か。だがその様子だと、それが限界みたいだ」

 全身を炎で纏うのが限界の出力だ。これを撃ち出したりすることはできない。

 しかし、中距離戦だけが、魔術師の間合いじゃない。

 すぐさま相手の懐に潜り込む。

 いつか言ったかもしれないが、私の戦闘スタイルは中距離での魔術師用と、近距離での体術使用の両刃型。

 片方をもう片方で強化しながら戦闘する、私の戦い方の基本だ。

 出力こそかつてに劣るものの……。



 勝算はいくらでもあるはずだった。




 私は仰向けに倒れていた。

 炎も消えていた。

 一体何の力が?

 今の一瞬、接近した時、相手もまた一歩踏み出していた。

 その瞬間、相手の足元から何か“黒いもの”が溢れ出してきた。

 あれは魔術ではない。だとしたら魔法?

 いや、違う…。

今までに見たことがない力だった。

「特に私が何をしようということはない。ただその少年をこちらに渡してくれればいいのだ」

 ああ、そうだ。あの子さえ渡してしまえばいいのかもしれない。


「ちょっと待った」


 聞き覚えのある声だった。

「私、その子の姉です」

「何?」

 顔を横に向けた。そのずっと先に立っていたのは。

 未紅さんだった。

「家族を探してるんだったら、あたしでもいいでしょ?ほら」

「そうだな」

 男は意外にもあっさりと裕君の束縛を解いた。

「それで、もうひとつ。そこにいる、あたしの“友達”は、どうしてそこに倒れてるの?」

「戦う気か?」

「戦うんじゃない」

 まさか。

 無茶だ。もしそれが、彼女の判断だとしても。

 間違っているとしか思えない。

 私が友達だなんて、そんなことはない。

 今すぐ裕君を連れて逃げるべきだ。

「今から始まるのは、仕返しよ」

 未紅が走り出す。

 速い。少なくとも私と以上には速い。

 魔術も使ってないのに。

 魔法使いでもないはずなのに。

「……」


 だが彼女もまた、同じ結末を辿るのだ。

 彼の足元から吹き出す黒い力に押しのけられて。

「見えない…なんて………」

 男は私たちを見下ろしていた。

「君、普段はもっとたくさんの人を連れていたんじゃなかったか?今日はどうした?」

「弟助けるくらい…友達助けるくらい、あたし一人でもやってみせるわよ」

 未紅は立ち上がった。

「そうか。だが私の目的は達成された。家族のもとにその子が辿り着いたのだからな」

「本当にそれだけなの?」

「ああ。そう、もうひとつ、そこの“魔術師”に助言しておこう」

 どうして私が魔術師だということを知っているんだ?

 砂利の上に倒れながらも、声を捻り上げる。

「何者ですか……あなた」


 男は表情を変えないまま告げた。


「私は聖飾者(ドレスホルダー)。“幽霊船”を見つけろ。そして、杖を手に入れるんだ」


 そう言い残して、暗闇に消えた。



「ルディア!」

 私は目を覚ました。

 私は寝ていたようだ。日中も体力を使っていたし、それに…。

 あの聖飾者を名乗る男の攻撃は、どうやら彼の足を根源に発動したみたいだった。完璧な黒に近い何かが溢れ出し、それが津波のように私を襲った。体に外傷はなく、痛みもない。ただそれより不思議な感覚が、私を押さえつけていた。

 その攻撃が、どうしてか私を眠りにいざなったのだろう。

「ねえ、ルディア?話せる?」

「え、ええ。ちょっと考え事を」

 とはいえ、日は出ていないことを鑑みると、そう長くは経っていない。

 それより、裕君は。

「裕ならここにいるよ。大丈夫。あと、ありがと」

「いえ。まさか未紅さんの弟だったとは思いませんでした」

「さん、ってつけなくていいって。“友達”なんだし」

「そうですね…」

 ここまで何かの縁で繋がれてしまった以上、もう私たちは友達なのかもしれない。

 不思議な感情だ。

「それで、裕君を連れて帰るんですか?」

「……いや」

 そしてそのとき、私たちは同時に振り向いた。

 再び向こうの木の裏側から足音が聞こえたからだ。

 二人で暗中を睨む。

 そこから現れたのは、一人の女性だった。

「やっほー」

「……お姉ちゃん」

 そうか。裕君がはぐれた姉というのは、彼女のことだったのか。

 彼女は背が高く、髪は赤色。長い髪を一点で結び、確かに楽器が入ったバッグを背負っている。

「迎えに来たよ」

「だって、ほら」

 未紅は裕君の背中を押した。

「いやいや違うよ。未紅は帰らないの?」

「あたしは帰らないよ」

「そっか。まあ、帰りたいときに帰ってきな」

 意外とドライだ。たしかに、話し方から読み取れそうな性格も似通っている。

「で、そっちの子は?」

「この子が裕を連れてきてくれたんだ。あたしの友達」

「友達ね」

「何?」

「なんでも。それで、お名前は?」

「ルディアです」

「へえ。日本人じゃないね。出身はどこ?」

「“遠い場所”としか」

「なんだそれ。まあいいや。私はアイナ。またどこかで会えたら」

 そう言い残して、アイナさんは裕君を連れて行った。



「いいの?未紅」

「うん」

 未紅は二人の後ろ姿を見届けると、突然私の手を引いた。

「あたしたちも行こう!まだ行きたいところ、いっぱいあるでしょ?」

 彼女は笑っていた。

「もう、今日は遅いから寝ましょうよ」

「もう少しだけ、ね?」


 今私は笑っているのだろうか。



 この奇妙な関係性は。

 生前を懐かしく思うこの感情の正体は、私が曖昧に理解しているあれだ。


 口に出すのは恥ずかしいが、確かに感じるこの“友情”が。

 今この二人を、いつの間にか繋ぎとめていた。


「仕方ないですね。少しだけ、ですよ」

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