第32話 恭子32

 涼子が去ってから、またベッドに戻った。

 いろいろなことを考えているうちに、また眠ってしまった。


 次に目が覚めると朝だった。

 すっきりとした気分だった。


 あれこれと悩んでいた事柄は、昨日の夜に置いてきてしまったのだろうか。結局、問題は何も解決しないまま終わってしまったのに。

 涼子は行ってしまったのだから。


 でも、彼女が望んでいるのなら、その気持ちを汲んであげたかった。

 やれることはやった。そしてこの結果なら、私にはどうすることもできないことだったのだ。

 だから清々しいとさえ思えるのだろう。


 ベッドからおりて窓際に近寄る。

 東向きの窓ではなかったけれど、朝日が眩しかった。


 病院のあちこちで、人々が目覚める気配がしている。

 それを微笑ましく思った。


 一夜にして自分が随分とタフになったような気がする。

 それとも最初からこうだったのだろうか?

 一瞬だけ涼子のペディキュアが頭をよぎった。


 ゆっくりと街が起き出して、一気に動き始めるのを、ぼんやりと眺めていた。そのうち、ノックの音がして看護師さんが入ってきた。

 昨夜対応してくれた人とは違う女性だ。

 溌剌とした表情をしている。朝早いのに、綺麗にメイクをしていた。


 私がベッドに戻ると、蒸しタオルを渡してくれる。顔を拭くと、ほっとした気持ちになった。

 その間に看護師さんは体温や血圧を計測していく。

 不思議だった。これは相手が誰であれ行うものなのだろうか?

 体温は低めだ。血圧の数値は見えなかった。たとえ見えたとしても、どれくらいが正常値なのかわからないけれど。


 それから朝ごはんだといって、シェイカーのようなものを置いていった。体を鍛えている人がプロテインを飲むときに使うような容器だった。


 中身は見えない。

 飲み口の部分だけが開いていた。

 中身がなんであるのかは、もちろんわかる。

 見えないようにしてあるのは、きっと私への配慮だ。

 それが自分が生きていくために必要不可欠なものだったとしても、抵抗感あって受け入れられない人もいるだろう。特に成り立てて、初めて口にするような場合は。


 私も深く想像するとダメかもしれない。

 だから、勢いだけで飲んでみた。


 一度シェイカーをテーブルに戻して口に残った液体を嚥下する。今度は落ち着いて飲んでみる。


 手足の先が温まるような感じがした。美味しかった。それに美味しさだけではない、気持ち良さも。

 味わったことのない感覚だった。

 人間のときの食事とは全然違う。ただの栄養補給ではない。

 なるほど、これなら、人を襲ってしまう輩が出てくるだろう。


 満腹になったので、病室から出てみる。

 お年寄りがゆっくりと歩いていた。

 吸血鬼でも迷子でもない。一般の患者のようだ。私がいても大丈夫なのだろうか。


 入院着のままだったけれど、周囲に見える人たちはみんな同じような格好だったので気にならなかった。

 談話室にいると、すぐに理玖くんがやってきた。

 理玖くんはこれから検査があるらしい。

 桔梗さんが病院にくるまでは、私もここにいなくてはならない。

 談話室の本棚には、漫画と小説と雑誌が少しずつ置いてあったので、ここで時間を潰すことにした。


 お昼が過ぎたあたりだった。

 軽快に階段をのぼる音が聞こえてきた。

 ここは八階なので階段を使う人はそういないはずだ。七階や九階への移動なら話は別だが、足音はずっと下からのぼってきているようだった。


 私は非常階段のある方角を見て待つ。

 明るい色の髪が揺れた。伊織さんだった。

 伊織さんは私がここにいることを知っていたみたいに、迷うことなくこちらにくる。


「やあ」


 そう言って向かいの席に座った。


「こんにちは」


 伊織さんは私の顔を見ると、ほんの少しだけ目を細めた。


 私の事情を知ってきたのだろうか。そうではなかったとしても、気が付いただろう。

 今なら私も彼が同族であることがわかる。


「今日はこれを渡しに寄ったんだ」


 持っていた紙袋をテーブルの上に置く。

 女性向け洋服ブランドのショッパーだった。テープでとめてある。買ってきたばかりのものらしい。


「帰るのに着替えが必要だと思って」


 テープを剥がして中の物を出す。

 シンプルなワンピースだった。自分でも選びそうなデザインだ。


 そういえば昨日、伊織さんに頼んで持ってきてもらおうと、冗談で言っていたのを思い出す。


「私、今お金がなくて」

「いいよ。プレゼント。助けるって言ったのに、道を進ませてしまったから」


 重過ぎない口調だった。それがかえって私には良かった。


「せっかく忠告してもらっていたのに」

「うん」

「あのときは死にそうになっていて……理玖くんか私か、どちらかが吸血鬼にならないと、二人とも助からないと思ったんです」

「うん」

「あんな小さい子がなるくらいなら、私がなろうって」

「うん。立派だったよ」


 伊織さんがまっすぐ私を見て言った。

 今回のことの中で、少なくてもそれだけは、素直に良かったと思えることだ。

 あらためてそう思った。

 

 

 

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