第23話 恭子23
「……
桔梗さんの小さな声が聞こえた。
一度しか会っていない。けれど、涼子の想い人かもしれないと、じろじろ見てしまっていたから覚えている。あのとき、この人の口元にほくろはなかった。だからこれはメイクで付け足したものだ。
ただの女装ではない。
洋服も、わざわざ血で汚れたものを着ている。
誰かに似せているんだ。
榎木丸梓。
それは無表情の人の名前だろうか、それとも似せたい女性の名前だろうか。
無表情の人はまっすぐ公主のところへ歩いて行くと、ぴたりと止まった。見ているのはおそらく、公主の背後にいるバックドアと呼ばれた男性だ。
男性のほうも無表情の人を見返す。鋭い瞳だ。目の下に隈がある。その隈が、この男性を現実に生きている人なのだと印象付けていた。
静かだった。
どちらも話さない。
空気が重苦しい。
自分の呼吸音がうるさく感じられた。
不用意に動けない。周りの人もそうなのだろう。誰も身じろぎひとつしない。
無表情の人の背中からは、表に出てこない激しい感情が漏れ出ている気がした。
この男性と無表情の人との対面。
これが『こちらの用』か。
公主は半眼で床のあたりに視線を投げている。笑っているような口元のせいで、彫刻や仏像のようだった。
浅い呼吸を繰り返して苦しくなった私は、公主の顔を眺めてやり過ごそうとする。
と、その眉がすっと動いた。
目が大きく開く。
「……違うね」
公主がそう言うと、無表情の人は頭が動く。男性から目を逸らして公主のほうを見た。頷く。
そしてまた、私たちの間をすり抜けると、扉から外へ出ていった。
決意の目をしていた。
「もういいよ。ご協力感謝する」
公主の言葉で、私は大きく息を吐く。
背後にいた男性が、公主から離れた。
「復讐か……」
男性の声だ。
何の感情も伴わないような声だった。でも、その瞳はわずかに動揺で揺れていた。
「もう遅いよ」
公主が笑った。
男性はさらに公主から離れると、床に飛び込んで、そして消えた。
そうとしか見えなかった。
まるでそこに穴があいているかのように。
いや、あるのは水たまりだ。
それを見て理玖くんが飛び出す。
「理玖!」
森咲さんが追いかける。
理玖くんは男性が消えた場所の側に座ると、そこにあった水たまりを覗き込んだ。
水たまりは鏡のように部屋の中を映している。ただの水ではなさそうだ。
壁には細長い水筒のようなものが転がっていた。
さっき、後輩さんがよろめいたときにした音はこれだろう。当の後輩さんは、その騒ぎの中静かに外へ出た。
公主が理玖くんにペンを渡し、理玖くんはそれを水たまりに差し込んだ。けれどそれは床を突っついただけになったようだ。
「中に入れないかい?」
公主が訊ねて、理玖くんが頷く。
「残念だ」
さっきの男性は本当にその水たまりに消えたのだろうか。
桔梗さんが部屋の隅に移動し、ポケットから携帯電話を出すと耳に当てた。
すぐに慌てた声を発する。
同時に遠くで音がした。
大勢の悲鳴のようなものも聞こえた。
理玖くんを見る。守らないと。
理玖くんはこちらに駆け寄ると私の手を取った。
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