白い部屋で

増田朋美

白い部屋で

その日は、真夏らしくない涼しい日で、ちょっと雨が降って、ちょうど過ごしやすいなあと思われる日だった。東北の辺りでは大雨特別警報が出たといって騒いでいるが、この静岡では、あまり大雨にはならなかった。

そんな中、今日は雨だから、客も来ないかなと思っていた伊能蘭の家のインターフォンが五回連続してなった。間違いなく、この鳴らし方は杉ちゃんだった。

「何だよ杉ちゃん、今日買い物に行く約束はしてなかったはずだけど?」

そう言いながら蘭が、玄関のドアを開けると、

「失礼いたします。」

と言って、かっぱみたいな顔をした柳沢裕美先生がやってきた。隣には、30代なかばくらいの、ちょっと訳ありかなと思われる雰囲気のある女性が一緒にいた。

「ど、どうしたんですか。柳沢先生がここへ来られるなんて。」

蘭は驚いてそう言うが、

「まあまあ、雨に濡れたまんま、ここに立たせるのは可哀想だよ。とにかく中へ入れろ。」

杉ちゃんに言われて蘭はとりあえず、三人を中に入れた。

「いやあ、素敵なお家ですね。刺青師さんというと、もっと暗くて怖い雰囲気があるかと思ったんですが、そのようなことは全くありませんな。」

と言いながら、入ってくる柳沢先生。蘭はどうして医者がここへやってきたのだろうと、思わず耳を疑ってしまったのであった。とりあえず、三人にはテーブルに座ってもらって、お茶をどうぞといってお茶を出す。

「ありがとうございます。それではお願いなんですが、こちらの女性、梅木美子さんと言う方なんですが、この方の傷跡を刺青で消していただけないでしょうか?」

柳沢先生がそう言うと、梅木美子さんと言われた女性が、申し訳ない顔で蘭に頭を下げた。

「は、はい。あの、彫る部位はどこでしょうか?」

蘭が聞くと、

「ここです。」

と、柳沢先生は、彼女の左手首を見せた。大きなキズがあった。

「はあ、これはひどいですね。普通のリストカットだけとは思えませんね。」

蘭が思わずそう言うと、

「はい。実は彼女、先日手首を切って自殺未遂を起こしましてね。幸い、お父様が発見してくださって、すぐに病院に搬送してくださったので、一命をとりとめましたが、傷跡が、こうしてのこってしまいました。それで、二度と同じことを繰り返させないために、傷跡を刺青で消してもらいたいんですよ。美容外科に言っても無理だと言われまして、だったら杉ちゃんが、刺青で消したらいいというものですから。」

柳沢先生はそう答えた。蘭は、彼女の手首の傷痕をはあという顔で眺めて、

「そうですね。ですが、彫る側にも、傷跡を見せないように彫るのは、正直難易度の高いものなんですよ。それに僕は、マシーンを使えないので、えらく時間がかかってしまうので、他の刺青師を当たったほうがいいかと、、、。」

と言ったのであるが、

「何を言ってんだよ。弱いものの味方をしたいっていつも言ってるじゃないかよ。それに、マシーンを使えないなんて関係ないんじゃないの?手彫りのほうが、色がうまく入って、きれいに彫れるといったのは蘭でしょう?」

杉ちゃんに言われて、蘭はそうだねえとしかたなく言った。

「それなら、決まりだな。もう二度と自殺なんかしないように、励ましてやれるような柄をお願いします。リストカット癖がひどい人でも、刺青がだめになるからという理由で、思いとどまってくれる人は、たくさん居るからね。何も怖いことはないよ。思いっきり好きな柄を彫ってもらってね。」

「そうだねえ。正直難易度の高い刺青になると思いますので、あまり大掛かりな柄は彫れないかもしれませんが、それでもよろしければ、お願いします。あと僕は、和彫りしかできませんので、、、。」

杉ちゃんに言われて蘭は、もったいぶりながらそういったのであるが、

「和彫りも何も関係ないよ。とにかく彼女の手首の傷を消してくれるのが出来る人は、お前さんしかいないんだから頼むよ。」

と言われて、蘭は、仕方なくハイと言った。

「じゃあ、彫る内容を決めましょう。刺青は一生残りますので、簡単にポイポイ決めるものではありません。梅木さんでしたよね。なにか彫りたいものはありますか?」

蘭は、梅木さんという女性にそう聞いてみたのだが、彼女は何も口を聞いてくれなかった。代わりに柳沢先生が、

「強度の人間不信に陥っているようですので、優しく話しかけてやってください。」

というくらいだった。

「それでは、植物図鑑でも持ってきますから、それで彫りたいものを指さしてもらえませんか?」

蘭がそう言うと、梅木さんは首を縦に振った。蘭は、戸棚から、植物図鑑を出してきて、梅木さんに見せてあげた。梅木さんは、ページを捲って、梅の花を指さした。

「ああ、梅がお好きなんですか。確かに、寒さに耐えて花を咲かせますから、希望の花とも言いますね。梅の花は、吉祥文様にもなってますし、いい柄だと思いますよ。じゃあ、梅の花で、傷跡を隠すようにしましょうか。まずはじめに下絵を描きますので、どの図案が良いか選んでください。」

蘭がそう言うと、彼女はにこやかに笑ってくれたのだが、でもまだ言葉は出ないようだった。

「大丈夫です。僕達は、決してあなたのことを、馬鹿にしたり、変なふうに扱うことはしませんから。」

蘭がそう言うと、彼女は、深々と頭を下げた。とても丁寧な女性の印象だった。そこから話はすぐに決まり、梅木美子の手首についている傷跡を消すように、手首にブレスレット様に、梅の花の刺青を彫ることで決定した。彼女は週に一回、蘭のもとへ通うようになった。確かに手彫りというのは、機械彫りに比べると激痛なのかもしれないが、彼女は、そのことで文句を言うことはなかった。というより、蘭に対して、何も話してくれないのだった。いつも刺青の施術では、大体の人が、自分の生い立ちなどを喋りたがるものなのだが、どういうわけか、梅木美子さんは、何も喋ってはくれないのだった。

確かに、蘭の言うとおり、難易度の高い刺青だ。いくら小さな飾りであると言っても、深い傷があるので色が入りにくいし、薄い色なので、傷を目立たなくさせることは難しい。なので手首にブレスレット様に彫るという作業であっても、かなり時間のかかる刺青だった。それでも彼女は、キチンと毎週予約した日に来てくれるし、二時間突いても何も文句も言わないのであるが。

ある日、蘭が昼ごはんの準備をしていると、蘭の家の固定電話がなった。誰だと思ったら、柳沢先生であった。

「こんにちは。どうですか。彼女の施術は、進んでおりますか?」

「ええ。定期的にキチンと来てくれるので、半端彫りにはならなくて済みそうです。それより、先生、ちょっと聞きたいことがあるんですが。」

蘭がそう言うと、柳沢先生は、ハイなんでしょうといった。

「彼女ですけど、僕のところには来てくれるんですが、未だに話をしてくれたことが一回も無いんです。なにかわけがあったんでしょうか。単に自殺未遂をしたというだけでは済まされない問題のようですが?一体彼女は何があったんでしょうか?」

蘭がそう言うと、柳沢先生も、

「はい、それが、医療関係者でもわからないのですよ。彼女のご両親のお話ですと、彼女は、仕事がうまく行かなくて、自宅に閉じこもる様になってしまったのは確かなんです。」

と、耳の痛い話を始めた。確かに、そうなってしまう若い女性は最近増えている。

「それでは、誰かにカウンセリングを受けるとか、そういうことをしてもらったのでしょうか?家族だけでは、引きこもりは解決できないですよね?」

と、蘭は柳沢先生に聞くと、

「はい、そうなんです。そこはよく知ってます。それで、ご家族は、彼女を適応指導教室というものに送ったそうなんですが。」

柳沢先生もそう答えた。

「適応指導教室?初めて聞く言葉ですね。それはどういうものなんでしょうか?」

蘭がまた聞くと、

「なんでも、問題のある若い人に自立を促す施設であるそうなんですが、まあ最近そういう商売が増えてますよね。でも、中には、引き出し屋とか呼ばれている悪質なところもあるみたいなんです。その見分け方が、本当に大変なんでしょうけど、、、。」

柳沢先生は蘭が初めて聞く言葉を言った。確かに、引きこもりや、発達障害のある人に、自立を促す施設はよくある。蘭のもとへ通っている女性にもそういうところでお世話になっている人も居る。

「そうですか。それは、どちらの施設なんでしょうか?」

「富士宮市と聞いていますが、こちらでもあまり詳しい話は得られないのです。あまり介入してしまうと、患者さんのプライバシーがどうのとか言われてしまいますので。」

「そうなんですね。」

お医者さんもご苦労なことだ。確かに、患者さんのプライバシーを大事にというのもあるが、時には、大きなことを掴み取らないと、患者さんのことを、解決に導けないこともあることだろう。そういうところが、日本の医者は難しい。

「それでは、彼女は、その教室でなにかあったということになりますね。悪質な業者というのが、あったということになりますから。」

蘭は、核心をついた様に言った。

「ええ、そうですね。もしかしたら、医者ではなくて、弁護士とか、そういう人が必要になるかもしれません。そのあたりは、彼女のご家族がなにか行動すると思いますが、いずれにしても、残念な事業ですね。」

柳沢先生にそう言われて、蘭はどうしてそんな悪質な企業に彼女を送り込んでしまったのか、不憫でならなかった。多分きっと、彼女はそれで大いに傷ついてしまったのだろう。

「わかりました。とりあえず、彼女の刺青は順調です。もうすぐ色入れを終えて仕上げになります。しっかり、やりますので、そこは安心してください。」

とりあえずそう言って蘭は電話を切った。そして、急いで車椅子を動かして仕事場に行き、パソコンを開いて、富士宮市適応指導教室と検索してみる。確かに、富士山近くの山麓地帯ということもあり、農作業などを通じて立ち直らせることを謳った、若い人向きの指導施設は多く見られた。でもそのなかで、不祥事が起きたということを、知らせている施設はどこにもなかったし、評判が偉く悪いという施設もなかった。まあ確かに、そういう施設であれば、悪いところをあえてウェブサイトに載せるということはしないと思うのだが。それにしても、富士市に比べると、富士宮市は、福祉活動がしやすいのだろうか?富士市の何倍もそういう施設が建っているところに蘭は驚いてしまった。それだけ、居場所のない人が多いということと、彼らや彼女たちを治す方法が、今は見つかっていないということかもしれない。施設の経営者の経歴もウェブサイトで見ることができるが、元教員だったり、会社役員だったり、経歴は色々だった。中にはもと警察官という施設もある。確かにこういう施設経営になにか資格が必要というわけではないのだが、蘭は、そのなかで、平岡雅子という女性が経営しているという施設が気になった。平岡雅子。テレビで見たことがある。確かその時は、報道番組で、引きこもりや不登校の若い人たちを立ち直らせた事でインタビューを受けていたような感じだったけど、かなり昔のことなので記憶が曖昧だった。でも、そうやって、無関係な蘭にまで名前を覚えさせるくらいだから、強烈な印象を残していると思うのであるが。

また、インターフォンが五回なった。誰だろうと思ったら、杉ちゃんだった。

「どうしたんだよ。出てこないなんて、何を悩んでいるか、心配になっちゃったよ。」

いつもどおり、言う文句は変わらない杉ちゃんであった。蘭は思わず、

「杉ちゃん、君みたいな人は、悩まなくていいねえ。」

と言ってしまう。杉ちゃんは呆れた顔をして、

「悩みが無いわけじゃないよ。これだって、悩んでいることはあるんだよ。」

と蘭に言った。

「はあ、杉ちゃんが悩むなんてどういうことかな。」

蘭が思わず聞いてみると、

「だって、今回の利用者さんは、問題が大きすぎるというか、重すぎるんだよ。なんでこうなっちまったのかなって、みんなそう言ってるよ。まあ、ご両親も偉い人がやっているってことに騙されちまったんだろうけど、でも、悪質な引き出し屋に彼女を引き渡したのは、問題だと思うよ。」

と、杉ちゃんが言った。

「ということは、製鉄所にまた利用者が来たのか?」

蘭はそうきくと、杉ちゃんは、そういうことだなといった。

「でもね。単に居場所が無いだけで来ているわけでは無いぞ。なんでも、富士宮の有名な施設に預けられたようだが、そこでうまく行かなくて戻ってきちまったらしい。あーあ、まさかさあ、戸塚ヨットスクールみたいな事業所が、静岡にもあったとは、信じられないよ。」

「なるほど。杉ちゃん、その有名な施設って、まさか主催は、平岡雅子とか言う女性じゃないの?」

「そうだけど?」

蘭がそう言うと、杉ちゃんはあっさりと肯定した。

「確かに、きれいな人だし、実業家として有能な女性ではあるが、ちょっとやりすぎだと思うって、言われてるんだって。具体的な事件が起きたわけじゃないから、公に出されるわけじゃないけど、でも、多かれ少なかれ、トラブルにあうこともあるんじゃないの?」

「トラブルってどんな?」

蘭が聞くと、

「なんでも、自殺未遂者が出たんだって。遺書はなかったらしいが、その適応指導教室の、行き過ぎた指導が原因だって警察が調べたらしいんだけどね。証拠不十分で起訴できなかったって、聞いたことがあるよ。」

杉ちゃんがそう言うので、蘭はピンときた。もしかしたら、その自殺未遂者というのは、梅木美子ではなかったのだろうか?それで、彼女は他人を信じられなくなり、無言症になってしまったのでは?

「杉ちゃんありがとう!近いうちに富士宮市に行ってみるよ!」

蘭は、杉ちゃんにそうお礼をいった。そんなに嬉しいのか、と杉ちゃんは呆れていたが、蘭にしてみれば、貴重な情報が入ってくれて嬉しかったのである。

次の日、蘭は、富士宮駅から、バスに乗って、適応指導教室にいってみた。なんでも、かなり山奥にあった。そういう施設はひと目につきにくいところにあるものだが、この施設はとくに山奥にあるなと蘭は感じた。とりあえず、施設の正門に行ってみる。そこで呼び鈴を鳴らそうと思ったが、車椅子の彼には届かず困っていると、

「失礼ですが、入所希望の方でしょうか?」

と、低い声の女性が、蘭に声をかけた。蘭は急いで、

「あの、失礼ですが、こちらに、梅木美子という女性が、入所していませんでしたでしょうか?」

と単刀直入に質問した。女性は蘭が何をしに来たのかわかってしまったようで、

「中へ入りましょう。」

と言って、彼を応接室のような部屋へ招き入れた。そこは、何も飾りのない真っ白い部屋だった。確かに、椅子や机はあり、本棚などもあるんだけど、壁に花を飾るとか、そのようなことは一切なく、無神経な感じの部屋だった。

「あの、もう一回言いますね。梅木美子さんのことでなにかご存知なのでは?」

と蘭がまたいうと、

「ええ、梅木さんは、たしかに、こちらに来てますよ。」

と、女性は無鉄砲に言った。

「その彼女が、なにかこちらであったんでしょうか?現在彼女は無言症のために治療を受けています。」

蘭がそう言うと、

「ああ、彼女は、体力的に弱すぎて、こちらの指導についていかなかったんです。それだけのことです。」

と女性は答えた。

「あの、それには、行き過ぎた、言い方を変えれば暴力的な指導がこちらであったということは考えられませんか?こちらでは、自殺未遂者が出たと言いますが、それは誰だったのでしょうか?梅木さんは、今、だれとも口を開こうとしてくれません。彼女の心の傷は、どちらで負傷したんでしょうね?」

「ええ。そうだったかもしれませんが、こちらの指導で現に立ち直ったものも居るのですから、私のやり方はは間違ってはいないと思います。」

そういう彼女に蘭は、

「でも、自殺未遂者が出たんです。教育というのは、自殺をさせるためのものではありませんよね。たとえ、正しいとしていたものであっても、そういう人が出たなら、正しいと言えるでしょうか?それは、どうかと思いますが?」

と、彼女に言ったのであるが、彼女は、鼻で笑うような顔をした。

「あなた、何者ですか?自殺未遂とか、そういうことは、ここのやり方に合わなかっただけのことで、私の責任ではありません。」

「ええ、僕は、刺青師の伊能蘭と申します。現在、梅木さんを担当しています。」

蘭は自分の意見をしっかりと述べた。

「そうなんですか。まあ、そういうところへ行く以上、彼女は立ち直れないでしょうね。私達は、正常な世界に戻すための教育を行っているのであって、あなたのような人にここへ来てもらうようなことは一切行っていません。梅木さんのことでしたら、私達は何もしていません。すみませんがお引取りください。」

そう、女性に言われて蘭は、彼女を責めてもこれ以上は無駄だろうなと思った。同時に、彼女は、そういう目でしか、悩んでいる人を見られなかったのだと感じ取った。蘭は仕方なく、すみませんと言って、すごすごと施設を出たのであるが、そのときに、送ってくれる人も、誰もいなかったので、こういう施設なんだなと感じ取ったのであった。

何もしないで帰ってきてしまった蘭であったが、貸切バスのような、空っぽのバスのなかで、蘭は、乗るのを手伝ってくれた運転手にこう言われたのであった。

「あんた、良くあの支援施設に文句言ってくれたね。あそこは、事実上平岡雅子の独壇場みたいなもんだもん。もう平岡のやりたい放題で、そこに行く子を何人か乗せたことがあったけど、みんなつらそうだったよ。あんたが、文句言ってくれて、平岡が、少し頭を冷やしてくれると、利用者も喜ぶんじゃないかな。」

蘭は、そう言われて、自分のしたことは間違いではないんだと思った。

「そうですね。僕も被害者の女の子と、話したことがありましたので。」

とりあえずそれだけ言っておいた。




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