第8章 天安寺裏参道 その1

 素空は天安寺龍門てんあんじりゅうもんを仕上げた後も、2尺(60cm)の石に地蔵菩薩じぞうぼさつを彫っていた。既に暇を作っては彫っていて、輪郭がしっかりとして、仕上げまであと僅かだった。

 初めての石像造いしづくりだったが、既に匠の体を成していた。石仏は仕上げ彫りを終わるところだったが、それはまさに本物の仏の姿だった。

 素空は伊勢滝野いせたきので初めて目にした地蔵菩薩を真似て彫った。首が落ちないよう、胴と頭を繋いだ姿をしていたのを、今になって気が付いた。『あの時は、あの御姿をそのまま受け入れたが、こうして地蔵様を彫ると、御姿のすべてに意味があったのだ』素空は、玄空大師が彫った伊勢滝野の地蔵菩薩をもう1度思い浮かべた。木彫りの地蔵菩薩だったら、しっかりした首を彫った筈だと思った。

 途中で2度ほど玄空大師が覗いたが、素空の彫り方をジッと見るだけで、言葉を掛けずに帰って行った。素空は、玄空大師に借りた道具を上手に使いこなしていて、既に玄空大師の指導を受けることはなかったのだった。

 素空はジッと目を閉じ、10才の頃を思い出していた。路傍の地蔵菩薩に驚きと不思議を感じ、仏師の道を志したのだった。仏の悪戯によって仏師を志して10年の歳月が経ち、素空は既に本物の姿を彫り上げる真の仏師になっていた。

 天安寺龍門が落成して暫らく後に、墓所の太一たいちの墓の脇に地蔵菩薩が祀られた。この地蔵菩薩は、素空が天安寺に眠るすべての僧のためにも彫ったため、と命名されたが、墓参したすべての人々の信仰を集めた。僧達は、すべての僧と太一のために経を唱え、素空の目論見は成就した。

 桜の蕾が膨らみ始めた頃、素空は最後の仕事に手を付けることにした。それは、良円りょうえんの骨を掘り上げ、里に帰すことだった。

 素空は墓所に立ち、良円の墓前でジッと目を閉じ、夢想の中で良円との短い月日をすべて蘇らせていた。目を開くとそこに良円が居るのではないかと思うくらいに鮮明だった。『良円様、随分長らくお待たせいたしました。私が御本山を去る時に、良円様を里にお連れするつもりでしたが、いよいよその日が近まりました。玄空大師にお許しを頂くまで、もう少しお待ち下さい』素空は心の中でそう言うと、3本の経を唱え始めた。

 素空の経は静かに墓所を這うように響き渡り、静寂の中に凛とした厳しさを醸しだしていた。素空は気付かなかったが、その時墓所の1番奥の草むらにただならぬ妖気ようきが持ち上がった。妖気は素空のところからまったく見えない遠くだったが、経の響きは低く地を這うように届いていた。妖気は経の響きによって目覚め、身をくねらせて経の響きに耐えているようだった。苦しみの中に目覚めた悪鬼が、己の意思で墓所から逃れようとしているかのようだった。素空の経が終わった時、墓所には妖気が消え去っていた。

 素空は、良円の墓参を終えると、瑞覚大師の墓前に額ずき、3本の経を唱え始めた。経がまたも地を這うように響き始めると、瑞覚大師の姿が、素空の眼前に笑顔を見せた。素空は、悠才ゆうさいの墓前においても3本の経を唱え始めた。すると、悠才が薬師如来像を抱きかかえながら、素空に笑顔を向けた。

 やがて、素空は太一の墓標の前で、地蔵菩薩に黙礼した。地蔵菩薩は、素空をチラッと見ると口元を緩め明らかに笑顔を向けた。素空は10才の頃のように驚くことはなかった。ジッと目を閉じ、3本の経を唱え始めた。

 墓所を去ると、忍仁堂に行き、玄空大師の部屋を訪ねた。目的はただ1つ、良円の墓を掘り上げ、遺骨を掘り出すことだった。

 「素空が思うままにいたすが良かろう。明智みょうちにはその旨を伝えて、墓掘りの人手と道具の手配をさせてあるのじゃよ」玄空大師はそれだけ言うと押し黙っていた。素空は、玄空大師の心の内を悟り、早々に暇乞いをした。

 素空は灯明番の詰め所を訪ね、明智に墓掘りの相談をした。

 「素空様の最後の仕事になったのですね。人選にはきっとご満足の行く方々を揃えますのでご安心下さい」明智はそれっきり押し黙った。

 素空は、玄空大師の時と同様、早々に暇乞いをした。

 その日の午後、栄雪えいせつ仁啓じんけい法垂ほうすい淡戒たんかい行信ぎょうしん栄至えいし胡仁こじんが忍仁堂の本堂に呼ばれ、『明日、良円の遺骨を掘り上げる』と伝えられた。皆は声を上げて喜んだ。

 それから灯明番の詰め所に移動し、明智の部屋は、嘗ての仏師方で賑わった。今は明智に本物の仏像を彫る力も、真贋を見極める力もなかったが、詰め所には明智が彫り上げた数多くの仏像が並んでいた。

 栄至が言った。「明智様、見事な御姿ばかりですね」

 明智は自嘲気味に答えた。「灯明番のおさを務めることは、僧の積み上げた徳を打ち消すに等しく、これらの御姿は己の小さな器を露呈したに過ぎないのですよ。彫りながら、素空様なら灯明番の長を務めようとも、真の御姿を彫ることができるのだろうと思うのですが、今はただ、素空様に促されたままに彫り続けようと思っています」

 仁啓が、明智に問い掛けた。「では、明智様は御仏の真贋を見分けることもできなくなったのですか?」

 明智はまたも自嘲気味に答えた。「御仏の降臨があっても、今の私には目にすることはできないでしょう。そのことが分かっていたから、四神降臨の時、仁王門に配されたのでしょう。御仏は卑しき者には御姿を現さないようです」

 淡戒が言った。「当時、栄信様が灯明番の長から、伊勢滝野の薬師寺に参ったのは、瑞覚大師の臨終の際に、御仏の御降臨を見届けられるようにとのお計らいだったそうです。明智様が本当の御姿を彫り上げるためには、お役を降りなければならないのでしょうか?」

 淡戒がそう言った時、皆、思いもしない展開が脳裏をよぎった。

 法垂が思わず尋ねた。「明智様はお役を退かれるのですか?」皆も、明智に視線を向けて、明智の言葉を待った。

 「忍仁大師の昔から今日まで、灯明は絶えることなく灯し続けられ、灯明番は東院で最も尊いお役目なのです。無論、他のお勤めと同じく、私から退くことを申し出ることはありませんし、そのつもりもありません。今はただ、素空様のおっしゃる通り、彫り続けることしか考えていないのです」明智はキッパリと言い切った。

 明智は自分のことから話題を変えて、明日の良円の墓掘りの話を始めた。

 「明日、辰の刻たつのこく(午前8時)から始めたいと思います。栄雪、仁啓、法垂、栄至の4人は1番手として掘り始め、半時後はんときご(1時間後)に淡戒、行信、胡仁と私の4人が2番手として交代します。1番手の方々には掘り上げ用の道具を、2番手の方々にはふるいと骨箱を用意しています。明朝、素空様が参った時はすべて終わるように考えて、巳の刻みのこく(午後10時)開始と告げています」明智は暫らく間をおいて語り継いだ。「敢えて巳の刻と告げたのは、このところ素空様に休む間がないことを心配してのことです。最後のお務めまでまっしぐらなのです。何時お倒れになっても不思議ではないご様子を、皆様にも心得て頂きたいと思います」

 明智の言葉は皆の心配を更に大きくした。皆一様に、素空の様子を気にしていたのだった。

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