天安寺龍門 その4
天安寺の春は日1日と暖かさを増し、好天に恵まれた日が続いた。
大門の材料が揃った日、素空は先端に龍の彫り物をするために彫りの道具を手にしていた。しかし、宇土屋喜兵衛の願いで2本の柱のうち、1本を宇土屋の職人に彫ってもらうことになった。彫り手は甚太である。甚太は宇土屋喜兵衛の娘と所帯を持ち、今は宇土屋甚五郎と改名して、大工の腕を存分に振るっていた。
甚五郎は腕自慢で、欄間や根付、大工道具の墨壺の飾り彫りでは他の大工達から一目置かれていた。しかし、甚五郎は薬師堂で素空の彫り物を知って、どうしても教えを乞いたいと思っていた。彫り物に魂が籠るにはどうすればいいのか、どうしても知りたかったのだった。
「えっ!やっぱり、そう来なくっちゃいけないねぇ!」甚五郎は嬉々として、素空に言った。「おいらは前に大門を造った時に、上り龍と下り龍がいいと思ったんですよ」素空が、甚五郎に彫り物の名を告げた時のことだった。
素空は門柱の彫り物と同時に、雷除けの銅線を用意した。淡戒の鍛冶場は、今は
「素空様、これをどのように使うのですか?」双悦の疑問に、素空が答えて言った。「稲妻は仏閣の中で、銅屋根に多く落ちるものなのです。天安寺の仏閣はすべて瓦屋根であり、雷は落ちにくいものなのですが、それでも高台の玄武堂などには落ちやすいため、巨木を周りに配置しているのです。新しい大門は、天と地を結ぶ門柱に、稲妻を銅線で導き地中深く送り込むのです。そのために、地中深く銅線を埋める穴を掘る必要があるのです」素空の考えは、現在の避雷針と同じ物だったが、当時、世のどこにもそんな試みはなかった。
素空は四神降臨で大門が焼失した時、既に手配した100貫(375kg)の銅地金を待つばかりだった。門柱や門扉の材料が届いて10日ほど経った時、2本の門柱の前と後ろに2体ずつ、登り龍と下り龍を配し、1本に4体、全部で8体の龍を彫ることにした。それぞれの配置と長さ大きさを決め、彫り込む前に8体の彫り物が浮き出すように周りを削ぎ取って整えた。甚五郎が門扉に掛かっている間に、素空の準備は進み、そろそろ彫りに掛かろうとした時、甚五郎が自分の道具を披露して見せた。道具は手入れが行き届き、彫り物をするには十分だった。
「甚五郎様、明日から始められそうですね。その前に、私なりの心構えを申し上げますので、お聞き下さい。先ず、御仏を彫る場合は経を唱え、心を御仏の世界に寄せるのですが、龍を彫る場合は真の姿を求めることは難しいのです。空想上の生き物なのですから、動くとなると霊の存在が必要とされるのです。しかし、霊を司るのも御仏ですから、想像上の生き物も御仏の御心の内にあるのです。彫り手の信心が御仏を動かし、御仏が霊を動かすのです。お解りですか?」
「では、いずれにしても彫り物には、仏様のお力が必要って訳ですか?」
「そうです。しかしながら、御仏を彫る時より更に容易に彫り上げることができるでしょう。例えば、四神の建立は仁啓様や法垂様の彫りで十分だったのです。動く動かないは御仏の必要があるかないかなのです」甚五郎は深く感じ入った。
甚五郎は、甚太として薬師堂の造営に加わって、素空と初めて知り合ったが、その後、宿所に3人の賊が押し入った時、素空の仁王尊に助けられていた。彫り物が動くなどそれまで全く信じなかったが、実際にそのことを経験し、京の宇土屋で家人が救われたことを聞いてからは、素空に直に彫りの手ほどきを受けたいと思っていた。
素空は次の日から1本の柱に2体ずつ彫り進めた。素空の彫りは速く、見る見るうちに2体の粗彫りが終わり、3日後には仕上げ彫りに入っていた。
甚五郎は焦った。腕自慢の自分が、素空の前では全くのろまのようだった。素空が片面を終わった時、甚五郎は仕上げにはいって1日経った頃だった。素空は
「甚五郎様、私はもうすぐ天安寺を下りなければなりませんが、その前に、この門柱と
甚五郎は一瞬で心が萎えそうになった。木彫りと、石仏を同時に彫っていて、自分より速く彫り進めているのだ。自分の力不足を思い知らされた1日となったが、その日を境に甚五郎の打ち込み方が変わった。
体の鱗の彫り方と、足の鱗の彫り方を教えてもらい、素空と同じ物が彫り終わったのが、初めて7日目だった。丸太を
「素空様、出来上がりましたね。この龍が動きだすのでしょうか?」
「甚五郎様、この門柱の龍を動かそうとするのは、御仏を試すことなのです。そのことはご承知でしょうか?…では、御仏があなたの願いを聞き届けられるか、御仏にお伺いいたしましょう」素空はその場で経を唱え、甚五郎への慈悲を願った。
素空の経が小半時(30分)ほど続いた時、素空が彫った柱の龍が動き始め、柱から浮きでて
「素空様の龍だけが動きました。何故私の彫り物が動かなかったのでしょうか?」
「素空が言った。御仏にはあなたへ御慈悲を下さいとお祈りしたのです。御仏はあなたに御仏の御力を示すために龍を動かし、あなたの心の内にある傲慢を御諫め下さったのです。腕自慢をすることは
甚五郎は、素空の言葉を心の中心に大切に納めた。それからの甚五郎は、広く世に知られても決して
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