天安寺龍門 その2

 瑞覚大師の即身成仏と法要を知らせる使者が発った。京に向かった栄至達4人は、飛脚問屋、二見屋に向かった後、2手に分かれて山城国やましろのくにを巡り始めた。胡仁と楚賢そけんは南の8寺を受け持ち、栄至と芙才ふさいは京を中心に北の11寺を巡ることになったが、栄至は二見屋から三つの寺を回ると宇土屋に入った。

 使者に立った8人はその日の最後に回った寺に宿泊することになっていたが、栄至と芙才は宇土屋で世話になることになった。

 宇土屋喜兵衛は満面の笑みを崩さず言い放った。「栄至様、今宵は念願が叶いお泊り下さってありがとうございます。大したお持て成しはできませんが、おくつろぎ下さい。お休み前に仏間でお経をお願いできますれば嬉しいのですが…」

 栄至が答えた。「今宵はお世話をお掛けいたします。仏間をお貸し下さることはこの上ない喜びです。却って、こちらからお願いしたいくらいでした」

 宇土屋は、栄至と馬が合った。ここに海童和尚かいどうおしょうがいたらなおさらよかった。

 夕食の膳が並んだ時、芙才は目を見張った。久方振りのご馳走だった。「私が御本山に上がる前日、檀家の方々がお持て成し下さった時以来です」

 芙才の感激した様子に気をよくした宇土屋は、晩酌の酔いも加勢して普段より饒舌だった。既に、天安寺門と厨子のことは伝えられ、材料が入り次第取り掛かることになっていた。

 宇土屋が言った。「瑞覚様が即身成仏されたとは、めでたいことでしょうが、わしは寂しいだけです。いつまでもお元気でいて下されば、これに勝ることはなかったのですが…」

 栄至が尋ねた。「宇土屋様と瑞覚様とは、長いお付き合いだったのでしょうか?」

 「お大師様が、瑞光様ずいこうさまとおっしゃっていた頃からですよ。玄空様が寺を去られて3年くらい経った時ですが、その頃東院の勘定方をなさっていました。それから随分良くして頂きました。私の若い頃は、おやじに付いて京に出て来たばかりの、腕自慢の物知らずでした。お大師様は、多くのことを教えて下さり、独り立ちの手助けもして下さいました。私がこうしていられるのはお大師様のお陰なのです」

 宇土屋は昔を懐かしみ、目頭を拭った。

 栄至の慰めに気を取り直し、更に語り始めた。

 「わしは天安寺で瑞覚様と興仁様と栄信様のお3方をお坊様の中でも特別なお方と思っていましたが、世の中は広いものですね。素空様が現れなさった時、このお3方が褒めちぎることが不思議でしたが、仁王様に助けられた頃には、そのことが私にも分かるようになったのですよ。ところが、その素空様のお師匠様は、その上を行くお方でした。ほんに上には上のお方がいらっしゃいます」

 この夜、仏間で驚くべきことが起こった。食後の歓談が終わり、就寝前の経を唱えるために仏間に入った栄至が仏壇を見てハッとした。

 「宇土屋様、この観音様は素空様が彫られたのではありませんか?」栄至は思わず声を上げた。すると、宇土屋がニッコリ笑って答えた。「これは玄空様が下されたのですよ。夜中にそっとお経を唱えると、金色に輝くことがあるのです。それはそれは、神々しい輝きなのです」宇土屋はこれを言いたくて仕方がなかったのだった。

 栄至が言った。「やはり玄空様と素空様の彫り方はよく似ていますね。どちらが彫られても本物の御姿を現しているのは間違いないことです」

 栄至は経を唱え始めた。栄至と芙才の声が響き、家人がその後をなぞるように唱えた。この日は3本唱えられたが、家族と住み込みの職人や使用人のすべてが信心深く、最後の経が唱えられると、仏間の声が一体いったいとなり大きく響き渡った。

 玄空大師の観音菩薩は金色の輝きに包まれ、仏間を金色に染めた。一心いっしんに経を唱えていた宇土屋喜兵衛が気付いて、アッと声を上げた。すぐに目を閉じ経の続きを唱えたが、数人が宇土屋の声に目を開いた。こうなってはすぐに皆の知るところとなり、経を唱えるどころではなくなってしまった。

 「親方、観音様が光ってますよ」「ああ勿体ない、観音様が御姿を御見せだ!」などと、口々に異変を訴えた。

 栄至はハッと息を呑んだ。素空の彫り物が輝くのは目にしたことがあったが、玄空大師の彫り物も同じように金色の輝きを発していた。しかし、今は騒ぎを静め経を唱えなければならなかった。

 栄至が言った。「皆様、お経の途中で気を散らしてはなりません。お経は御仏とのお話しなのですよ。さあ、続けましょう」

 金色に輝く仏間に、経を唱える声が1つになって響き始め、経が終わり皆が目を開いた時、輝きは治まったものの観音菩薩は金色の光背を揺らめかせ、時折ゆらゆらと淡い光を放っていた。寅吉とらきちと言う住み込みの大工が言った。「親方、今日に限ってお姿を現しなさるのはどう言う訳なのでしょうか?お坊様がお2人いなさるからなのでしょうか?」

 宇土屋が言った。「とら、尤もなことだ。観音様を頂いてからこんなことは初めてだ。栄至様、どう言うことなんでしょうか?」

 栄至は暫らく考えた。「御仏は皆様の信心にお答え下さったのでしょう」栄至は咄嗟に素空の言葉を真似て言った。

 栄至は法話を思い立った。この信心深い人々なら、自分の拙い言葉でも、きっと聴き入れてくれると思った。「瑞覚大師が召される時に四神のお迎えがありました。その折、稲妻に打たれた大門が焼失したのですが、これは御仏の御計らいであったそうなのです」栄至は法話の内容を大門の改修に始まり、金色の輝きで締めようと思った。話の多くは栄雪や栄覚大師に聴いた、素空や玄空大師の言葉だったが、宇土屋の家人達は心を打たれ、話に聞き入っていた。

 栄至は最後を締めくくった。

 「皆様は毎日欠かすことなく仏間に入っていらした筈です。人が御仏の方を向いている限り、御仏は人を受け入れるのです。人がもっと御仏に近付くために、御仏は助けの手を差し伸べるのです。先ほど輝いた金色の光は、皆様の信心が更に強くなるように御仏が手助けをなさったのです。更に信心なさることです。ところで、金色の輝きのことですが、皆様は信じて疑わない方々でしょうが、ここにいない人に決して話してはなりません。ここにいる方々の胸に仕舞っておくことです。それは、御仏の御慈悲に応えることなのですから…」栄至はそこまで言うと一息吐いて、硬い表情を崩さずまた話し続けた。

 「今、仏間に居ないお方にこのことを話すと、素直に信じられないばかりか、罪の種を蒔くことにもなりかねないのです。このことはとても大切なことなのです。よくよくご承知おき下さい」栄至は語り終えた。

 宇土屋の家人達は静まり返った部屋で、互いに顔を見合わせ、何か言うべきか、このまま黙っているべきか迷っている風だった。

 宇土屋喜兵衛が言った。「いやあ、栄至様はさすがです。天安寺で修行をなさると、おっしゃることが理に適って感心させられます」そう言うと寅吉の方を向いて、『分かっているだろうな』と言う仕草をした。

 法話が終わり、2人の僧と宇土屋が仏間に残った。家人達は部屋をでると口々に、なお消え去ることのない光景と僅かな金色の輝きを小声で話し合っていた。

 「栄至様、芙才様、今夜は本当にありがとうございました。思い掛けなく観音様が輝き、奉公人まで更に信心が深まることでしょう」宇土屋喜兵衛は上機嫌だった。

 宇土屋も栄至も、家人達のために仏が現れたと思っていたが、実は栄至のために現れたことを、栄至はまだ気付いてはいなかった。

 翌日、栄至と芙才は洛中から北側にある寺を回るために宇土屋を後にした。宇土屋から1番近い寺は揚善寺ようぜんじだったが、栄至はそこをすべての寺の最後に訪れることにした。

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