第6章 四神降臨 その1

 天安寺の境内のうめの木が小さな蕾を膨らませ、風が柔らかな香りを運んでいるようだった。

 天安寺のすべてのお堂が、陽射しの中で輝きだした頃、薬師堂やくしどうの僧達が大慌てで庫裏と瑞覚大師ずいかくだいしの居室を行き来していた。辰の刻たつのこく(午前8時)、瑞覚大師は居室で、栄覚大師えいかくだいしに抱き起された姿のまま既に事切れていた。2人の体を金色に染めながら、妙な静寂が部屋の空気を冷たくしていた。

 栄覚大師はその姿のまま、淡戒たんかいを西院の興仁大師こうじんだいしに、胡仁こじんを東院の玄空大師げんくうだいしに知らせるよう指示をだした。

 その朝早くのこと、瑞覚大師のお付きの僧、栄垂えいすいが目覚めたのが寅の下刻とらのげこく(午前5時)だった。隣室の瑞覚大師が目覚めていると感じたのは、襖を隔てて蝋燭の光が漏れだしていたためだった。起きて衣を整え、瑞覚大師にそっと声を掛けたが、返事がなかったので、そっと襖を開けた。栄垂は仰天した。目の前の光は蝋燭ではなく、瑞覚大師の体から出ている金色の光だった。

 瑞覚大師は敷き布団の上に正座した姿で、栄垂を呼び寄せて言った。「栄垂や、永く私に仕えてくれてありがとう。いよいよ最期の時が来たようじゃ。わしは寅の刻とらのこく(午前4時)に御仏の御降臨に浴したのじゃ。御仏はわしが日の出前に、生あるうちに成仏を果たすとおっしゃられたのじゃよ。愚かにも、わしは我が身が即身仏となるのかと尋ねたのじゃよ。御仏はお答えにならず、ただ微笑んでおられただけであったが、わしは問うまでもなくそうなると約束されたことを信じたのだよ。すると、わしは体が金色に輝き、力が漲って来るのをハッキリと実感したのだよ。そして、我が身が既に成仏を果たしたことを知るに至ったのだよ。栄垂や、わしは既に身罷り、御仏と言葉を交わし、天と地を行き来する力を授かったのだよ」

 栄垂は驚きの表情を見せたまま、部屋の中を見回した。昨夜は確かにあった、文机の木彫りの薬師如来像はなく、同じ場所に極彩色の衣をまとい、肌色をした左の手には薬壺が乗っていた。栄垂は仰天した。即身成仏の瑞覚大師に驚きながら、更に驚いたのだった。素空や瑞覚大師が拝顔していたと言う姿が、自分の目にもハッキリと見えたことが不思議だった。

 すると、栄垂にしゃべり掛けて来た。その正体に気付くまでには、ぼんやりしていたのだが、ハッとして平伏した。

 薬師如来が言った。《栄垂や、永く瑞覚に仕えたことを感謝します。瑞覚の成仏を機に、今まで目にすることができなかったすべてを見せてあげましょう。今日起こるすべてを書き留め、後に明智みょうちに知らせるのです。そして、次のことを玄空げんくうに伝えなさい。瑞覚には、私が最初に現れた時に悟りを与えたのです。瑞覚が自分で気が付かぬうちに悟りを得、身罷るその日まで精進する姿は、人の生きた手本となるのだと》

 薬師如来が言い終わると、今度は瑞覚大師が言葉を掛けた。

 「栄垂や、如来様のお言葉は、わしにも聞こえました。勿体ないと思った3年前を思うと今のお言葉は、私の思いそのものであったよ。不思議にも、如来様と心が通ったことを感じたのだよ」

 栄垂は即身成仏が生きながら棺に籠り、成仏を果たすものだと思っていたことを覆されたのだった。栄垂はどうすることもできないもどかしさを感じていた。そして、尋ねた。「お大師様、これから私はどうすれば良いのでしょうか?」

 栄垂の当惑した言葉に、瑞覚大師が微笑みながら答えた。「なすべきことはないに等しいのだよ。わしは暫らくして魂が体から離れ、天に運ばれることだろうが、そなたは何も心配せず、見て記録に残しておくれ。わしの体は僧達が良きようにするであろう。わしの身近にあった者だけにしかできないことは実に多いことだよ。後のことはすべてそなたに託し、わしは安心して成仏できるのだよ」

 瑞覚大師は微笑みながら栄垂を見詰めて言った。「さあ、時は満ちこの体に留まることはできなくなったようじゃ。栄覚が参ったら伝えておくれ。言葉は交わせなくとも、わしはいつも栄覚の側にいると…」

 栄垂が慌てて言った。「それでは、今すぐ栄覚大師をお呼びいたしましょう」

 瑞覚大師は、栄垂を制止した。

 「良いのだよ。わしの臨終はそなたに看取ってもらうと決めていたのだから…。わしが身罷っても、肉体は金色に包まれ、魂はこの部屋に残ることであろう。やがてお迎えが来るまでは、わしの側を決して離れぬよう頼みますよ」そう言ったきり、瑞覚大師は微動だにしなくなった。

 栄垂は、臨終の瞬間を呆然と見ていた。金色の輝きは変わらず全身を覆っていたが、肉体は何も応えることはなかった。

 暫らく、とこに座して微動だにしない瑞覚大師の姿を眺めていると、栄垂の傍らに何かが寄り添うような不思議な感覚を覚えた。

 「栄垂や、私は霊となって傍らにいるのじゃが、四神として、お迎えの使者が来るまではここに留まっていなければならぬのじゃよ。栄垂にこの部屋を出ぬよう命じた理由の1つがそのためで、最期を託した者としか交わすことのできない時を大切にしたいのじゃよ」瑞覚大師の霊は慈愛に満ち溢れ、栄垂は涙が止まらなかった。2人は1時(2時間)ほど多くのことを語り合った。思えば、これまでは殆んどすべてのことが瑞覚大師からの頼みごとを、栄垂がテキパキとこなすばかりで、何かを話し合うことなどはなかった。この時初めて、瑞覚大師の質問から始まり、栄垂が答え、その答えを瑞覚大師が評価して、栄垂の見識を高める助けとした。瑞覚大師の問い掛けは栄垂の足らないところを的確に補った。後年、栄垂は西院の大師として、善西ぜんせいと並ぶ徳僧と呼ばれるほどの僧になった。

 アッと言う間に1時いっとき(2時間)ほどが経ち、辰の刻たつのこく(午前8時)近くになって、胡仁が様子をうかがいに来た。「お大師様、お加減は如何でしょうか?」朝の勤めに顔を見せなかった2人が気掛かりだったのだ。

 胡仁が障子を開けて中の様子を見た瞬間、異様な気配に身動きが取れずに暫らく張り付いたような格好だった。とこに座して微動だにしない瑞覚大師と、その傍らの文机で栄垂が不意を衝かれたようにキョトンとしていたのだった。

 「栄垂様、お大師様は如何なされたのですか?まさか既に身罷られていらっしゃるのではないでしょうね?しっかりして下さい!」胡仁は厳しく言い放った。栄垂が答えて言った。「私は今、お大師様の教えを頂いておりました。そして、お大師様のご指示に従いこの部屋に留まっているのです」

 そして、しっかりした口調で胡仁に言った。

 「お大師様は2時ふたとき(4時間)ほど前に即身成仏を果たされ、御霊はこの部屋に留まり、四神の降臨を待つばかりです」

 胡仁は大慌てで庫裏に引き返した。間もなく栄覚大師が部屋に駆け込んで来て、瑞覚大師の体を抱きかかえると、金色の輝きが栄覚大師の体を包み、2人の姿はひと塊の金色の輝きとなり、ハッキリと見定めることができなくなった。

 栄垂は、文机の前に座していた。既に文机の上の薬師如来は居なくなっていて、栄垂がこれまでのことを文書に記録し始めた。栄垂は薬師如来が姿を隠したことには何の疑問も、詮索もなく、仏のすべてを受け入れていた。巻紙に寅の刻(午前4時)から、辰の刻(午前8時)までのできごとを、事細かに書き込み、その様子を絵に描き始めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る