お召しの日 その4

 素空は四神ししんのすべてを胸に納め、その脚で忍仁堂にんじんどうの玄空大師を訪ねた。

 「素空が来ると言うことは、何やら節目となることがあったようじゃな」玄空大師は、満面の笑みを湛えて素空の訪問を喜んだ。

 素空が言った。「お大師様、今日はすべての四神像をお参りして来ました。既に四神となるべき4体の霊は四神像の中に籠って、その日を迎える準備を整えています」素空の言葉で、玄空大師はお召しの日が間近だと感じた。

 「お大師様、明日は是非にも、青龍堂せいりゅうどう角松屋久兵衛様かどまつやきゅうべえさまの霊をお訪ね頂けないでしょうか?角松屋様は天安寺に思いを残して身罷られた、きょうの商家のあるじでした。お大師様にお話しを伺い、今生の思いを遂げることができますれば、魂の癒しになることでしょう」素空の願いに、玄空大師が笑顔で頷いた。

 「素空や、確かに承知した。明日、未の刻ひつじのこく(午後2時)に参ることにしようぞ」

 玄空大師の言葉に、素空が答えて言った。

 「ありがとうございます。実は、ご報告いたさねばならぬことがあります」

 素空が言った時、玄空大師が笑みを浮かべて言った。

 「そのことのみにて来ることはないと思っていたよ。わしに関りのあることのようじゃな?」

 素空が答えて言った。「朱雀神すざくしんを司るお方は、想雲大師そううんだいしの霊なのです。想雲大師は生前にご自分の行状を改め、お大師様に侘びることを心残りとして、身罷られたそうです。想雲大師とお言葉を交わして下されば、長年の思いは遂げられることと思います」

 玄空大師は、想雲大師の名がでて来た途端、ジッと目を閉じ何やら黙想した後答えて言った。「素空や、確かに承知したよ。想雲様が御仏の御慈悲を頂いたことはこの上ない喜びであるよ」

 素空が帰ってから、玄空大師は忍仁堂の本堂で仏の慈悲に感謝をするための経を唱えた。玄空大師の心に深く残る2人の僧の1人が想雲大師であり、若い頃に忍耐と言う徳を投げ捨て、燃え上がる怒りに打ち震えた相手だった。

 玄空大師は天安寺を下りると志賀しがの里で数日を過ごす間に、忍耐を捨てたことを深く悔恨し仏の慈悲を願ったのだが、仏の慈悲は玄空大師に留まらず、想雲大師の身にも注がれたことは今になって分かったことだ。

 素空は忍仁堂をでると、薬師堂で瑞覚大師ずいかくだいし栄覚大師えいかくだいしに四神に宿った霊のことを報告し、明日、未の刻ひつじのこく(午後2時)に玄空大師が四神のところに出向くことを告げた。その後素空は、釈迦堂しゃかどう興仁大師こうじんだいしに四神にまつわるすべてのことを話した。

 興仁大師は驚き、暫らく言葉がでなかった。

 「何と、お召しの時に如来様にょらいさまの供として四神が降臨するために4体の霊が必要だったとは…何んとまあ…」

 「そうです。四神が想像上のものであれば、霊の存在を通して初めて働くことが可能となるのですが、即身成仏そくしんじょうぶつのお迎えに、何故四神が登場するのかは未だに謎です。しかしながら、4人の霊が御仏の御慈悲を持って、浄土に入ることができますが、ひょっとすると、従者を従えることで、4体の霊を上げるための、御仏の御計らいだったのかも知れません」

 翌日、素空と玄空大師は青龍堂の本堂で経を唱えた後、青龍像の前に額ずいた。2人は深々と頭を垂れた後、経を唱え始めた。玄空大師の枯れた深い声と、素空の透き通った若々しい声が先になり、後になりしながら本堂いっぱいに広がった。

 ほどなく、角松屋の霊が現れた。「素空様、お2人のお声を何時までもお聴きしたい気持ちと、早くお会いしたい気持ちがありましたが、お大師様とお言葉を交わしたい気持ちがまさっていたようです。…私は角松屋久兵衛と申します。きょうで代々味噌醤油を商っています。御本山に上がり、徳の高いお坊様の講話を頂くことを何よりの楽しみとしていたのですが、病のため最後の願いは叶いませんでした。その心残りのために往生できずにこの世を彷徨う霊となったのです。お大師様、私の心を慰めて下さい」玄空大師はジッと目を閉じて聴いていたが、青龍像に微笑み掛けるとおもむろに口を開いた。「久兵衛殿、そなたは生前なかなかに信心深いお方であったと推察するが、それが故に勘違いをしたのだろうよ」

 玄空大師は慈愛に満ちた顔を青龍像に向けたまま更に語り続けた。

 「久兵衛殿、信心の種はどこにでもあるのじゃよ。天安寺の僧だけが特別ではないのじゃが、天安寺詣でを楽しみにする余り、そのように思い込んだのじゃろう。仏道は己のこだわりを捨てることから始まるのだよ。つまり、己を捨てすべてを受け入れることなのじゃ。我が身がすべてを受け入れるなら、天安寺詣でができなくなった時に、素直に受け入れていた筈なのじゃよ」

 玄空大師は笑みを浮かべながらも厳しく語った。

 角松屋の霊が言った。「お大師様、おっしゃる通りではありましょうが、やはり、御本山に御座おわすお方ならではのお言葉です。これで胸のつかえが取れ、心残りがなくなりました」

 角松屋の霊は嬉しそうに言ったが、玄空大師は眉根を寄せて改めて語った。

 「久兵衛殿、そのことが間違いの始まりなのじゃよ。わしも素空も2,3年前まで市井の僧であったのじゃ。素空に至っては御本山を下るのも間近なのだよ。市井の寺にも徳の高い僧は多いものじゃが、何より信心とは、悪しき者どもの中でもできるのじゃよ」

 玄空大師は声音を変えて、角松屋に優しく語り掛けた。

 「久兵衛殿、人の幸せは浄土に上がることなのじゃ。お前様は御仏よりその約束を頂いておるのじゃ。この世に未練を残すことは何もない筈じゃ。安心してすべてを受け入れ、御仏にすべてを委ねるのじゃ。このお務めは人の中で選ばれた者だけが成し得る誉なのだよ。安心なされよ」

 角松屋久兵衛は、玄空大師の言葉に深く感じ入った風だったが、小さな声で呟いた。『私がこの世を彷徨う霊となったのは、釈迦講への未練ではなく、そもそも思いを残して死を迎えたことが、浄土に上がる妨げになっていたとは、気付きもしないことであった』

 素空は、角松屋の呟きを聴き逃さなかった。

 「角松屋様、浄土は人の持つ一片いっぺんの罪をも赦すことはないのです。臨終の時、御仏にのみ心を向けなければ、浄土は人を受け入れることはありません」角松屋久兵衛は素空の言葉ですべてを納得した。

 素空と玄空大師は更に3本の経を唱えると、青龍堂を後にした。

 玄空大師は朱雀堂の門前でフッと一息吐ひといきついて境内に入って行った。素空は、玄空大師の緊張した表情を見ながら、自分の心が高揚して行くのを禁じ得なかった。

 2人は本堂で3本の経を唱えると、朱雀像の前で経を唱えながらお出ましを待った。3本目の経が終わり掛けた頃、想雲大師の霊が現れた。

 素空が言った。「お大師様、我が師玄空をお連れしました。私は暫らく座を外しますので、ごゆっくりお話し下さい」

 素空が去ってしばらく無言の時が流れ、玄空大師が語り始めた。「若かりし時、御本山を下りたことを思い出すたびに、我が身に忍耐が足らなかったことを恥じ入るばかりです」

 想雲大師が語った。「あの時、玄空が悟りを得た者となったことを知り、わしは心の底から妬ましく思い、そなたの存在が憎くて仕方なかったのじゃ。わしの心が歪み、その果てに仏罰を受けてやっと気付いたのじゃよ。わしは何と罪深い僧であったのかと。やがて、貫首かんじゅの座を退き、病を得た時そなたへの謝罪を残しては死ねぬと一心いっしんに思うようになったのじゃ。わしが悪かったのじゃよ。赦して下され」

 玄空大師が言った。「想雲様、こうして語り合えることは無上の喜びです。私には恨む気持ちは毛頭ありません。ただ、己の若気の至りを恥じ入るばかりです。今は朱雀神のお務めにご専念されんことを望むばかりです」

 想雲大師の霊が言った。「玄空が悟りを得たことは実に喜ばしいことであったのじゃ。死してなお、こうして言葉を交わせることは、そなたが悟りを得た者である証とも言えよう。また、瑞覚とは墓所で私への罪を謝罪してもらった時、瑞覚の心に一片の罪もなくなり、悟りを得たようなのじゃ。これもめでたいことであるが、わしは瑞覚のお陰で、墓所から朱雀像の中に導かれたのじゃ。そなたのためにも、お召しの日には、心して務めねばなるまいて…」

 想雲大師は暫らく間を置いて語り継いだ。「玄空が天安寺に呼ばれて、貫首の職を頂いたことは、当然であるが、瑞覚にも大きな功績があろうよ。その瑞覚のお召しの使者となることは、我が身の誉であるよ。四神が降臨する時、僧は即身仏となりて浄土を踏むのであるが、悟りを得ずして即身仏となることはできないのじゃよ。天安寺の僧の中で、四神の降臨を得た僧は、忍仁大師を始めとして、10指に満たないのだが、この度200年の時を隔てて、即身成仏が成せるのは素空の四神復刻が成就したからで、白虎神びゃっこしんだけでは四神降臨は叶わなかったであろうよ」

 想雲大師は最後にひとこと言った。「玄空や、今日はありがとう。そなたは本当に良い弟子を持たれたよ。それにしても、師弟共に悟りを得ることはなかなかに稀なることよ」

 玄空大師は朱雀像に深々とお辞儀をして、経を唱え始めた。素空が側に付いて2人の声が響き始めた時、朱雀神の様子が変わり始め、木彫りの像が、色も羽の様子も生きたもののようになった。首を時折傾げながら2人を見比べる仕草は鳥そのものだった。経が終わって玄空大師が、素空に語り掛けた。「時が満ち始めたようじゃ。四神のすべてを確かめねばならんようじゃな」2人は顔を見合わせて、静かに頷いた。

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