お召しの日 その2

 素空は白虎堂びゃっこどうの本堂に入り、2体の白虎像のうち、左側の赤い舌の白虎像の前に座した。赤い舌の白虎像が浄土じょうどに導き、黒い舌の白虎像が地獄じごくに導く役目を持っていると予想していたからで、素空には、悠才の霊が籠っているのなら、必ず赤い舌の白虎像だと確信していた。

 素空は経を唱え始めた。本堂に素空の声が響き、うねるような波となって四方に広がった。高善大師こうぜんだいしが数人の僧と本堂に遣って来たが、素空の姿を見届けると本堂横の縁側に座り、経の声に聴き入っていた。

 高善大師が、若い僧達に言った。「皆、素空の声をよく聴くのだよ、これほどの経を唱えられるのは、天安寺の数多の僧の中で、玄空大師げんくうだいしと素空だけなのだよ。どのような老僧高僧と言えども、素空の経を先んじて唱えることはできないのだよ。経は僧の優劣を表すと知っておくことだよ。そなた達も、経を唱える時は心を込めて声を響かせるようにしなさい。声は口からではなく、目の上3寸(9cm)からでて、聴く者の胸奥に直に届くことを目指すのだよ」高善大師はそう言うと、若い僧達と同じように素空の経に聴き入った。

 素空が3本目の経を唱え始めた時、赤い舌の白虎像が僅かに揺らぎ始めた。素空は経を最後まで唱えると、なおも揺らぐ白虎像を見定めた後、囁くように語り始めた。

 「悠才様にお伺いしたいことがありますのでお出まし下さい。既に私の経が届いている筈です。どうかお出まし下さいませ」

 素空は念ずるように、悠才の霊に語り掛けたその時、揺らぎが大きくハッキリしたかと思った瞬間、霊が声を発した。

 悠才の霊が言った。

 「素空様、私です。変わり果てた姿になりましたが、思いは以前と変わることころはありません。私がここにいることをどうして分かったのでしょうか?」

 素空が答えた。「悠才様が白虎神の姿で現れることは分かっていました。しからば、霊は白虎像の中に籠められていることは容易に想像できました。ところで、身罷られた後のことをお話し願えませんか?」素空は最も興味を抱いたことを質問した。

 「私が枝の下敷きになった時、その様を霊となった私が見ていました。暫らくして、胸に抱えた筈の如来様が闇の向こうから私を御呼びになったので、私は風に乗って御側おそばに参りました。闇の中の如来様は、私が抱いていた薬師如来像に間違いありません。そして、仰せになりました。

 《これより赤い舌の白虎像に籠りて、時の来るを待つのです。やがて、白虎神となりて天上に参るでしょう》

 その時からこの中に籠っていますが、自分の力で出入りすることは叶いません」

 素空が気遣わし気に声を掛けた。「白虎像の中でじっと待つのは苦しくはありませんか?」

 「不思議なことですが、生きている時の感覚はありませんから、どのように狭いところでも入り込めると思います。肉体を失ったことに特別な感情もなければ、この境遇を憂えたこともありません。御仏の御言葉に従っていることが理由の1つでしょうが、何より、ここを出ることに却って不安を感じるほどです。また、霊となっても変わらぬものもあるのです。私の思いや考えは以前と何ら変わりありません」

 素空はジッと耳を傾けて、悠才の言葉を心に刻んだ。

 素空が尋ねた。「他のお方のことをご存じでしょうか?」

 「素空様、霊となって、御仏より使命を頂いた時、私も含めた4人が互いを感じることができました。どうやら、私が1番の新参で永いお方で30年、新しいお方では半年前からになります。素空様が、回峰行の帰りに、連れて来られた一泉様いっせんさまが最初の霊で、次が想雲大師そううんだいしです」素空は、想雲大師の名を聴いた時ハッとした後、何やら深く考え込んだ。

 悠才の霊は更に語った。「3人目は角松屋久兵衛様かどまつやきゅうべえとおっしゃる、きょうの商家の旦那様です。半年ほど前に天安寺への初詣に思いを残して身罷られたのです。私は玄空大師に如来様をお見せしたいと思いながら息絶えたのです。また、一泉様は、素空様がおっしゃる通り天安寺に思いを残して身罷ったのです。想雲大師は、玄空大師の彫り掛けの毘沙門様を捨てたことを深く悔やんでおられました。ご自分が権勢を振るった時に、敢然と立ち向かった玄空大師への謝罪に思いを残して身罷ったのです」

 素空が尋ねた。「悠才様には、瑞覚大師が召される日がお分かりですか?」

 悠才の霊が答えた。「いいえ、その時は私達には分かりません。お3方がそれぞれ四神の像に籠められたところを見ると、お大師様のお召しの日は間近に迫っていると思います。…素空様、霊となった時から、時の感覚がすっかり変わって、どんなに月日を重ねたところで1日にも満たないような感じです。時はあってないが如く幸福な者を永遠の福楽に誘い、悪人を終わることのない地獄の苦しみに堕とすことを、霊になった今、実感を持って理解できました」

 悠才はここで悲しい口調で、素空の端整な顔をジッと見ると呟くように語った。

 「私達は、御仏に使命を頂き、間もなくこの世から召されましょうが、天上に上がれぬ多くの霊は冥府を彷徨い、あるいは現世に留まり、果てしない時を彷徨うのです。憐れと言えばこれほど憐れなことはありません」

 素空が頷きながら言った。

 「しかしながら、人の多くが冥府を彷徨うのです。御仏に倣いて浄土に近付くよう心して生きねばなりません」

 素空がそう言った時、悠才の霊が言った。「私が瑞覚大師と共に浄土に上がれるならば、それは素空様のお陰です。私がこうして白虎像の中に籠っている時も、希望と期待で幸せなことをお伝えしたいのです」

 素空は、この言葉で悠才の浄土への約束が叶ったように思った。

 素空は、暫らく悠才の霊と語り合い、白虎堂を後にした。

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