第5章 お召しの日 その1

 天安寺の冬が終わり、一面いちめんの銀世界から、うめの蕾がほころび始める時期になり、ぬかるみのせいで参道の歩行ができなくなった。7日間ほど、みやことの連絡はこの時期に断たれるのは例年の通りだった。ちなみに、志賀方面は傾斜の急な道が多く、冬場の歩行は危険を伴い、ほぼ通行不可能な状態だった。

 素空は、興仁大師と共に、薬師堂に瑞覚大師を訪ねた。このところ病状が思わしくないと聞いていたが、素空が姿を見せると人が変わったように元気に迎えた。

 興仁大師が言った。「瑞覚様、お加減が思わしくないと聞いてご機嫌伺に参りましたが、素空を伴なってよかったようですね。今日は久し振りなので、暫らくお邪魔してもよろしいでしょうか?」

 瑞覚大師が、にこやかに答えた。「興仁様と素空が見舞いにお越しならば、これより嬉しい客人はありません。ごゆるりとお過ごし下さい」そう言うと栄垂えいすいに茶と菓子を運ばせ、2人を持て成した。

 瑞覚大師は、素空が天安寺を去る日が近まる中、修行の経過が気になって仕方がないようだった。

 素空が言った。「私が御本山で為すべき修行は既に終えております。残る日々は御仏の思召しを身内みうちによくよく刻み込み、仏法の奥義を窮め悟りに近付くことです」

 瑞覚大師は目を閉じ、暫らく考えて語った。「世に稀なる僧は、御仏の御意思を世に広く伝え、万民を浄土に導く務めをっているのじゃよ。わしが玄空を呼んだのはそのことが故であったが、そなたもこの後は、万人のために教えを広めておくれ」

 素空が答えた。「私は天安寺で数多の僧のお1人お1人に多くの教えを頂きました。私は7才まで家族の中で育ち、17才まで伊勢滝野いせたきのの薬師寺で多くを学び、そして、御本山での3年間を経て、善き人に囲まれた生活でした。それは、御仏が硬い殻で守って下さったようにも思えます。御本山を下っては実に様々な人との新たな関りが生まれるでしょうが、御仏の教えは、そのすべての人に伝える所存です」

 瑞覚大師は天安寺を下った後の行動が、素空の頭の中で形を持っていると感じ、話題を変えることにした。

 興仁大師は、瑞覚大師の日常を尋ねた。栄覚大師は、素空の顔をチラッと見た後、答えて言った。「日常は体力の衰えも見られずお元気です。しかしながら、先月、お大師様と墓所に参った時のこと、想雲大師そううんだいしと思しき1体の霊が風となって墓所を抜けて行ったのです。変わったことはそれだけですが、今日はお2人のお陰で更にお元気のご様子です」

 栄覚大師が霊と言った時、興仁大師がハッとして、素空の顔を見た。

 興仁大師が言った。「素空よ、そなたは天安寺の大事の時、4体の霊が現れると思っているようだが如何に?」

 素空が答えて言った。

 「おっしゃる通り、初め悠才様ゆうさいさまが霊として現れることを知りました。次に一泉いっせんと言う僧の霊の存在を知るに至り、4体の霊が現れるだろうと確信いたしました。想雲大師の霊が3体目に当たるのであれば、残るは1体と言うことですが、どなたが現れるかは知る由もありません。また、既に存在しているのかも知れません。いずれにしても、そろそろ霊の存在を確かめなければならないと思っていました」

 素空の言葉で、栄覚大師がすかさず問い掛けた。

 「素空様、どこに潜んでいるか分からぬ霊に、どのようにして語り掛けるのでしょうか?」この問い掛けは、皆の意とするところだった。

 素空が言った。

 「恐らく、既に四神像ししんぞうの中においでではないかと思います。霊は自由に行き交うことができません。霊が姿を現した時、約束の場所に籠るのです。つまり、四神に籠るべき霊は、場所を変えるきっかけを得て、約束の場所に籠るのだと思います。これより四神と向き合い、語り掛けようと思います」

 居合わせた者は皆、素空の顔をまじまじと見詰め、霊と語ることなどこれまで考えもしなかったことだと驚いた。

 栄覚大師が言った。「素空様、驚きました。霊の存在もあまり考えたことがありませんでしたが、ましてや霊と語るなど、私には思いも寄らないことでした」

 栄覚大師は眩しそうに素空を見た後、2つのことを尋ねた。「素空様、一体いったいどのようにして霊と語るのでしょうか?その時、誰かがお側にいては成し遂げられないのでしょうか?」

 素空が答えた。「人の霊も、語り掛ければ必ず答えてくれるものと信じます。御仏でさえ願えば必ずお応え下さるのです。御仏のてのひらのうちにあるものはすべて御仏を倣うものだと信じます。初めは私1人で念じますので、ご一緒いっしょなさるのはご容赦頂きますが、2体目からは側でご覧になっても良いでしょう」

 瑞覚大師が尋ねた。「素空や、想雲大師の時にはわしが側に付かせてもらいたのじゃがよろしいか?」素空は笑顔を向けて頷いた。

 暫らくして、素空は白虎堂から始めたいと言って1人で帰って行った。

 興仁大師が言った。「素空は思い立ったらすぐに動かないと気がすまぬのじゃ」

 栄覚大師が言った。「素空様は、すべてのことを良き頃合いを見て動きなさいます。どうやら、霊と語るには、今すぐに始めるのが良いと思われたようです」

 瑞覚大師は、この言葉でお召しの日が間近のような気がした。「わしもそろそろ用意をせねばなるまいな」瑞覚大師の一言ひとことで、皆は素空がお召しの日に間に合うよう、急ぎたかったことを知った。

 栄垂が言った。「お大師様、本当に霊と話ができるのでしょうか?」栄垂には突拍子もないことのように思えた。

 瑞覚大師が答えて言った。「栄垂や、素空のことじゃ、常人の計り知れない力があるのだよ。それを法力ほうりきと言うのじゃが、古来より法力を持つ者は御仏と言葉を交わし、霊を従えると言われておるのじゃよ。玄空も然りであるが、悟りを得た者が法力を持って成し遂げることは、これすべて御仏の意に適うことであるよ」

 瑞覚大師は、栄垂に笑顔を向けて更に語った。

 「栄垂や、人は自ら体験しなければ信じられないものであろうが、僧であれば分かる筈じゃ。己より秀でたる者が信じていることは真理であることを。しからば、素空が成すことをすべて信じることじゃよ」

 瑞覚大師が更に語り継いだ。

 「素空が初めて御本山に参った日のことをハッキリと覚えているが、あの日の夜に如来様から直々にお言葉を頂いたことをありがたく思っておるのじゃよ。3年後に召されることもその時告げられたのじゃが、その時から毎日が何んと喜びに満ちたことか…。時は過ぎ、約束の日が近まったのじゃ。わしはこの世での最後のお勤めに掛からねばならぬようじゃ。最期は栄垂、そなたに委ねることにことになるが、よろしく頼みますよ」瑞覚大師の言葉に、栄垂が目を潤ませて頷いた。

 興仁大師が言った。「瑞覚大師は悟りの道を窮められることでしょう。御仏が3年前に御言葉を御掛けした時から、そのことが決められていたのやも知れません。夜毎よごとに御仏に語り掛けては如何でしょう」

 瑞覚大師はこの言葉で、今まで恐れ多くて考えもしなかったことに気付いた。

 「興仁様、何時もお知恵を頂きありがとうございます。今宵からそうさせて頂きますが、今日はお言葉を頂くことは叶わぬように思います」瑞覚大師の言葉に、興仁大師は如何なることかと尋ねたが、笑顔を返して言葉にしなかった。

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