四体の霊 その5

 睦月むつき(1月)半ばに悠才が突然身罷とつぜんみまかったった。

 悠才は釈迦堂しゃかどうの薪小屋の奥の作業場で2体目の仏像を彫っていたのだが、1体目の仏像のでき栄えを見たいとの玄空大師の意向で忍仁堂にんじんどうに向かっていたところだった。薬師如来像を胸に抱えて、釈迦堂を出て正倉しょうそうの前を通りかかった時、憲仁大師けんにんだいしの補佐を務める維垂いすい臥円がえんが、悠才の薬師如来像を見たいと願った。

 悠才は、玄空大師に乞われて忍仁堂に向かうところだと言って、薬師如来像を見せた。維垂は目を見張り称賛した。「これは何と立派な如来様でしょう。これほどの御姿を僅かな月日で彫り上げなさるとは、悠才様は、素空様と並び立つ仏師に間違いありません」

 悠才は、維垂に手放しで褒められ、一言ひとことだけ言っておかねばならないと思った。

 「維垂様、この如来様は木取りから素空様のご指導を受けており、素空様の彫られた1体の見本を真似ております。すべては素空様あってのこの御姿なのです。お褒め頂きますのは嬉しいのですが、決して私の力ではありません」そう言うと2人に深くこうべを垂れて忍仁堂に向かったが、これが最期の言葉になった。

 忍仁堂の角を曲がり、東院と西院の分かれ道に立った時、胸に抱えた如来像の包みが金色に輝きだした。肌色をなした顔と手足が、極彩色の衣の下で金色に輝いていた。『ああ、お召しの時が来たのだ。忍仁堂に急がなければ…。お大師様にお見せしなければ…』悠才は焦った。焦っても胸に抱えた如来像が動かなかった。分かれ道に立ちすくんでいると、突然、突風のような強い風が通り過ぎ、通りにあった大楠おおくすの枝が雪と共に落ちて来た。

 悠才は風に乗って雪が自分を覆ったかと思った瞬間、大楠の折れた枝の下敷きになった。痛くはなかった。どこを負傷したのかと思ったが、まったく分からなかった。如来像はしっかり胸に抱えていた。しかし、起き上がって見ると胸にしっかり抱いた筈の如来像がなかった。倒れたところを見ると自分の姿が大楠の枝の下敷きになっているではないか。

 悠才はここにいる自分が、霊となって現実を見ていることに気付いた。

 『一瞬いっしゅんの出来事だった。痛くも何ともなかったようだ。如来様を確かに目にしたが、お大師様に乞われたことだけを思い、経を唱えることもしなかったのは何んと言う不覚であったろうか』そう思うと、一陣いちじんの風となって西に消え去った。

 悠才の死の知らせが素空のもとに届いたのは小半時こはんとき(30分)後だった。

 素空は何の前触れもなく訪れた悠才の死をジッと目を閉じて受け止めた。素空には既に分かっていたことだったが、突然のできごとに心残りがあった。最後に言葉を交わしたかったが、叶わないことだった。

 素空が忍仁堂に着いた時、明智みょうちが亡骸の傍らに座り、密やかに経を唱えていた。亡骸なきがらは奥書院の馴染みの部屋に運ばれ、仁啓じんけい法垂ほうすいが通夜の支度をしていた。

 明智が言った。「素空様、小半時ほど前に運ばれました。胡仁こじん薬師堂やくしどうに戻る途中で倒れた枝に気付き、近付いて見ると雪に埋もれた悠才がいたそうです。文机の薬師如来像を見て下さい。胸に抱えるように持っていたそうで、傷ひとつありませんでした。不思議なことに、亡骸にも何の傷も打身もなく、枝の下敷きになったとは思えないほど綺麗でした」

 素空は、悠才の枕元に近い文机を見た。悠才が彫った薬師如来像だったが、彫り上げた時と趣が違っていることに気付いた。『これは恐らく死に際に如来様の降臨があった証に違いない』素空が心に思ったことは、明智の察するところとなった。

 「素空様、悠才が召される前に御仏の降臨があったのですか?」明智は察するに留まらなかった。悠才が仏の降臨に与ることができたか否かは、明智にとって最も大切なことだった。

 素空が言った。

 「明智様、案ずることはありません。悠才様の薬師如来様は確かに降臨して、お体に傷を付けることなく、悠才様の臨終を導いて下さったことでしょう。ただ、そのまま浄土に上がることはないのです。魂は天安寺に留まり、瑞覚大師の臨終の時に、使命を持って現れることでしょう」

 素空の言葉に明智ばかりか、仁啓や法垂も驚き、思わず法垂が尋ねた。「魂が天安寺に残るとなれば、この世に迷い出る幽霊と言うことでしょうか?」

 素空が答えて言った。「霊と、幽霊とは別物です。霊とは守護霊の如くこの世に思いを残し、現世に留まる魂のことなのです。悪霊は時折悪さをするようですが、本当に悪い者は死する時に地獄に落ちて現世に留まることができないのです。地獄にも極楽にも行かない者が現世に思いを残す時、霊となって留まるのです。また、幽霊とは霊の働きを感じた者が、思いの中で作り出すもので実体ではありません」

 法垂は地獄にも極楽にも行かず、現世にも留まらない霊はどこに行くのか尋ねた。

 「人が浄土を求めても、浄土は一片いっぺんの罪も赦すことはありません。地獄は償えない罪を持って死する者のみが堕ちるのです。人の多くは我知らず償えない罪を犯すものです。心して生きなければ、救いのない地獄に堕ちることになりましょう」

 素空は法垂を見て微笑み、話しを続けた。

 「お尋ねのことですが、人の多くは様々な罪を持ちながら死するのです。そのような人の魂は冥府を彷徨うのです。冥府を彷徨う魂は、己の力では浄土を踏むことはできません。やがて、長い年月を経て現世に生きる者の祈りが浄土に上げてくれることでしょう」

 素空が話し終わった時、明智がひとこと言った。「素空様、私にも共感できることですが、それは御仏の教えにはないようですが…」

 素空が言った。「その通りです。人が身罷る時、来世での魂の居所は、浄土と地獄の2つしかないと言うのは如何にも単純です。御仏の如く生きた者だけが浄土を踏み、償えない罪を持った者が地獄に堕ちると思えば、当然の如く冥府を彷徨う憐れな魂が存在しなければなりません」

 素空の明確な答えは、妙に真実味を帯びていた。素空が自信に満ちて言うことに間違いがある筈がないことは明白だった。

 素空が天安寺に上がって僧の葬儀に立ち会ったのは2回目だった。2人共極近しい関係だったが、素空の心に死を悲しむ気持ちはなかった。この世においての最後の別れをし、後の世において永福を得られるようひたすら祈るのだった。

 葬儀は釈迦堂の本堂で大勢の僧が参列する中、しめやかに行われた。悠才が明智一派にあって威力を振るったが、素空のもとで徳を積み、真の姿を彫るまでになったことは皆の知るところだった。本堂には東院からも大勢の僧が参列したが、ただ1人明智だけが姿を見せなかった。

 明智は忍仁堂の灯明部屋で、2本の灯台の上に輝く灯明の光をジッと見詰めていた。暫らくすると心が無となって、僧となって今日までのことを振り返り、やがて悠才との思い出を鮮やかに思い起こした。明智の目は薄っすらと濡れて見えたが、泣いてはいなかった。この世での別れと一抹いちまつの寂しさがほんの少し心を動かした。明智は経を唱え始め、悠才の霊が使命を果たし、瑞覚大師と共に浄土を踏むことを心から祈った。明智の経が3本目に入った時、灯明の炎が揺らぎだし、部屋がより明るくなった。すぐに元に戻ったが明智は願いが叶ったことを確信した。

 釈迦堂から出た葬列が忍仁堂に差し掛かった時、明智が列に加わり、棺のすぐ後ろの素空に従った。棺は栄雪えいせつ淡戒たんかいを始めとする嘗ての仏師方に担がれて、天安寺の墓所に向かった。葬列がお堂を抜けるたびに、新たに数人が加わり、東院を抜ける頃には最も大きくなった。墓所の入り口で多くが最後の別れをした。やがて、葬列は30人ほどに減って墓所の一角いっかくに着いた。良円りょうえんの墓の西側が選ばれ、丸い墓穴が既に掘られていた。

 棺が穴に納められ、素空と明智の読経の後を30人の僧がなぞるように唱えると、墓所のすべての墓石に響き渡った。経は5本唱えられ、最後の経が始まると墓石の間を縫うように地吹雪が通り抜け、僧達がざわつき始めた。

 風は確かに吹き荒れていたが、まるで僧達の周りに見えない壁があるように風は凪いでいた。睦月むつき(1月)の風は体の芯まで凍らす筈だが、僧達の輪の中は春の陽だまりのように暖かく、何かしら秘められた力で守られているようだった。

 やがて最後の経が終わり陽だまりが次第に崩れ、僧達は風の中に帰って行った。明智が1人残され、素空と栄覚大師えいかくだいし、仁啓、法垂、栄雪の5人は良円の墓の前で経を唱えていた。3本目の経が始まった頃、明智が加わり6人の心が1つになって陽だまりを作った。その時、陽だまりの中につむじ風のように寒風が吹き抜け、栄雪が良円の霊だと喜んだ。

 素空が言った。「残念ですが、良円様の霊は浄土にあるのです。今通り抜けたのは恐らく一泉いっせんと言う悲しき僧の霊でしょう。あとお2人の霊が加わった時、瑞覚様のお迎えの使者がすべて揃うことでしょう」

 素空は良円の墓から太一たいちの墓に移動した。栄覚大師と明智は既に承知だったが、他の僧達は何も知らぬまま従った。素空が墓参をすませ、皆と一緒いっしょに忍仁堂の奥書院に戻った時、既に玄空大師が座していた。玄空大師は皆の前で、悠才の薬師如来像をしげしげと眺めた。

 玄空大師が言った。「悠才はこの如来様をわしに見せようと向かっていたのじゃが、死する時にさぞ思いが残ったことであろう」

 素空が答えて言った。「悠才様は、この世に思いを残し、使命を果たさねばならなかったのです。これは御仏の計らいなのです」

 玄空大師は、素空の顔を見詰めながら、満足そうに頷いた。

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