四体の霊 その4

 天安寺が雪景色になったのは霜月しもつき(11月)の初めからだった。前日までは通りや軒下などに雪の積もらないところがちらほらあったが、夜半からの雪が翌日の昼頃まで続いて、すっかり銀世界になった。それから何回か雪が降り、師走しわす(12月)の半ばを過ぎる頃には、軒下のきしたにも風裏の背戸せどにも雪が降り積もった。その頃、素空と悠才が彫っていた薬師如来像が仕上がった。

 「悠才様、よくぞ彫り上げましたね。私の彫ったものと寸分の狂いもないのは見ての通りですが、悠才様の御仏にも御心が込められて本当の御姿を表しています。心で経を唱えながら御覧なさいませ。きっとハッキリとご覧になれることでしょう」素空が、悠才を優しく労った。

 悠才は言われた通り心の中で経を唱えると、自然に目を閉じ彫り始めてからこれまでのことを次々に思い出した。やがて、目をあけると金色の光の中に仏の姿が現れた。それは、悠才が彫った木彫りの薬師如来像ではなかった。肌色の顔や手足と絹の風合いを持つ極彩色の衣、まさしく本当の姿だった。

 悠才は言った。「素空様、これは一体いったいどのような訳でしょうか?私が彫った筈の如来様はどこに行ったのでしょうか?まさか、このお方が私の如来様でしょうか?私には、何が何やら分かりません」悠才が助けを求めるような目を向けた。

 素空は、悠才をじっと見詰めて答えた。

 「悠才様の前に御座おわしますお方はまさしく如来様なのです。つまり、悠才様のお召しが近まった証なのでしょう。今日からは、この如来様に向かってひたすら御経をお上げなさいませ、悟りに近付く絶好の機会です。これより、天安寺での修行の仕上げをなさいませ」素空はすべてを受け入れてくれた悠才に感謝をした。

 年が変わり、天安寺の三が日さんがにちは、きょうから50人ほどの初詣はつもうでがあり、雪の中の日帰りは困難なため、宿坊に1晩泊める慣わしだった。初詣と言っても、神社に詣でるのとは趣が違って、釈迦堂での護摩法要ごまほうようと1年間の家内安全を祈願してひたすら読経の中に身を置くのだった。彼らは天聖宗てんしょうしゅうの信者の中でも極めて信心深い人々だったが、この中に岩倉屋惣左衛門いわくらやそうざえもんの姿があった。岩倉屋惣左衛門はこの年から正月の『釈迦講しゃかこう』と言う初詣はつもうでの仲間に入ったのだった。一方いっぽう志賀方面しがほうめんからは、雪の多い年は雪解け後に少人数が参詣するくらいだった。

 京からの50人は殆んどが商家の主で、京や近隣の檀家代表だった。岩倉屋惣左衛門は昨年、陽善寺ようぜんじの檀家世話役になって、その信心振りが檀家衆の噂に上るほどだった。檀家代表は殆んど入れ替わることなく何年も務めるのだが、味噌醤油を商う角松屋かどまつやの主人が病死したため岩倉屋が引き受けることになった。

 角松屋の主人、久兵衛きゅうべえは1年ほど前に風邪を引いて床に就いて以来寝付いてしまった。還暦を迎えたばかりで、矍鑠かくしゃくとした主人が何故このようになったのか、家族や奉公人は悔やまれるばかりだった。

 角松屋久兵衛は病が次第に重くなる中でも、一向いっこうに信心が緩まなかった。死期が迫る頃、海童和尚かいどうおしょうが訪れて木彫りの薬師如来像を手渡しながら言った。

 「角松屋さん、この如来様は天安寺のお大師様がお若い頃に彫って下さったものですが、本当の御姿みすがたですよ。岩倉屋さんが良くご存じですが、先代住職もこの如来様のお陰で病が癒されました。これを暫らくお貸しいたしましょう」

 角松屋久兵衛は枕元に祀った薬師如来像と海童和尚を交互に見ながら礼を言った。和尚が帰ると、枕元に置いた薬師如来像を懐に納めて再び床に就いた。と、その時胸奥にドンと重さを感じて懐の薬師如来像を取り出した。すると、薬師如来像から金色の光が湧きだして布団の中を金色に染め、光は布団を突き抜け、部屋全体が金色に輝いた。角松屋久兵衛は狼狽し思わず声を出す寸前で思いとどまった。

 『何んと言うことだ。本当の如来様でいらっしゃる…。ああこれで病が癒されるのだろうか?勿体ないことだ』角松屋久兵衛は驚きながら喜び安堵した。

 しかし、この日を境に日一日ひいちにちと病状が悪化した。角松屋久兵衛は1日中経を唱え、病の平癒を願ったが、願えば願うほど聞き入れられないような歯痒さを感じながら更に経を唱えた。

 次の日も、また次の日も起きている時は経を唱えたが、この本当の如来像は聞き入れてくれなかった。

 角松屋久兵衛は既に起き上がることができないほど弱っていた。『本当の如来様には間違いないのだ。何故癒して下さらないのだろうか?』色々考えた末に1つの答えに到達した。『わしは死ぬのだ。如来様はそんなわしの願いを聞き入れることがないのは当然のことであった…』角松屋久兵衛は自分の死を理解した時、薬師如来像への願いが変わった。

 「如来様、私が召された後、家族や奉公人が信心を絶やさないように見守って下さい。皆が極楽往生ごくらくおうじょうできますようお導き下さい」角松屋久兵衛が家人のために願いをした時、懐の薬師如来像は願いを聞き入れたように金色に輝いた。

 角松屋久兵衛は心の平安を感じ、願いが聞き入れられたと確信した。懐から出して感謝の気持ちを表そうとした時、言葉も出ないほど驚いた。木彫りの薬師如来像は皮膚が肌色で、衣は極彩色に輝いていた。我が手から離れ、盆の上に収まった時、仏の明らかな存在と確かな意思を感じた。

 角松屋久兵衛はその日から家族のため、奉公人のため、やがて、これまで自分に関わったあらゆる人々のために祈った。次第に弱って行く我が身を省みることなくひたすら祈り、7日後に薄れ行く意識の中で家族に感謝の言葉を残して身罷った。

 角松屋久兵衛が息を引き取る寸前、部屋の明かりが消え、暗闇の中で木彫りの薬師如来像が金色に染まった。家人達は驚き如来像に平伏した。もとより信心深い家人達は、主が極楽往生を果たすだろうことを確信した。

 角松屋久兵衛は揚善寺の檀家の世話人を永く務め、町内の檀家達から信頼と尊敬を集めていた。だが、病を得てからは毎年欠かさず参加していた『釈迦講』に参加できなかったことを唯一ゆいつの悔いとした。昨年のこと、正月が近まると日に日に元気になったが、三が日が過ぎ、世話人仲間から土産をもらっても心から喜べない有様だった。

 角松屋久兵衛が心に天安寺の初詣への思いを残して身罷った時、彼の魂はそのまま浄土に行くことはなかった。従って、仏の降臨は浄土へのいざないではなく、角松屋久兵衛に1つの使命を果たさせるためであり、そのことで、この世での悔いを打ち消すよう慈悲を与えたものだった。人は誰も、この世に悔いを残したまま死ぬと、その魂は、すぐに浄土を踏むことはないのだった。

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