四体の霊 その3

 玄空大師は天安寺に上がるまでの7年間、摂津国せっつのくに西宮にしのみや清源寺せいげんじで修行した。素空と同様、両親に連れられて寺に預けられたのだった。ただ、素空との違いは貧しさからではなく、両親の信心深さからだった。

 玄空大師の父は寺の檀家総代だんかそうだいであり、相当の財力があった。『金品の寄進ばかりか、果ては我が子も差しだしてしもうた』と陰口を利かれもしたが、父は意に介さなかった。

 寺に上がった時10才だったが、もっと幼い頃から出家することが定められていて、折に触れて、小坊主になり学問を修め、徳の高い僧を目指すことを望まれた玄空は、何の疑問も感じることなく仏門に入ったのだった。

 清源寺に入ってからは、素空が小坊主の時に過ごしたとほぼ同じ毎日だった。違ったところはただ1つ、仏師となるのに師の手ほどきがなかったことだった。

 玄空大師は清源寺の本堂にある多くの仏像を目にした時、その素晴らしさに圧倒された。すべての仏像が師の手になるものとも知らず、自分の部屋に入って就寝までの間、見様見真似みようみまねの日々が続いた。

 希念きねんと言う名を頂いて、仏師の真似事を始めて5年ほど経った頃、希念の部屋に12才の弟弟子おとうとでしが入って来た時、彫り物のことを初めて師が知ることになった。虚空は、弟子に僧としての教えや、学問、礼儀作法を教授する他は殆んど干渉しなかったが、この時から、希念は本山に上がるまでの2年間、時折刃物の使い方と、その作り方について助言を受けた。

 虚空は極めて忙しい住職だった。檀家回りや托鉢を日課にし、年に数回10日ほどの旅回りもした。尤も、旅回りの目的は天安寺での仏像の手入れや、京や近隣の街で寺巡りをするためだと、檀家衆には言っていた。

 その当時、希念は寺以外での師の行動をまったく知らなかった。そもそも、そのことに何の疑問も興味も持たなかったのだった。師の前では教えを乞うことに貪欲であり、師が留守の時は仏像を彫ることに没頭した。手本は本堂にあった。そのすべてを師が彫り上げたことを知らずに真似た。自然に虚空の手を受け継ぎ、形を彫り上げた。玄空大師は、希念と呼ばれたこの頃に真贋を見極める力と、真の姿を彫り上げる仏師の本懐を得たのだが、悟りを得るに至るのはまだまだ先のことだった。

 若い頃の玄空大師は積極性に富んでいて、師が不在の時にはその本領を存分に発揮した。弟弟子の面倒を見ながら、食事の支度や寺の仕事をした。虚空は畑仕事とは無縁だったが、希念は早くから野菜園を作り旬の物を食卓に供した。主食は虚空の托鉢や、近くの檀家達から寄進されたが、すべてを揃えることは難しかったからだ。

 畑仕事を身に付けたことで、後にどこへ行っても食うに困ることがなくなった。玄空大師の今日を支えるもといは清源寺で作られたのだった。

 玄空大師はフッと空を見た。西院と東院の分かれ道を過ぎた時だった。陽の光が眩しく、雲の流れが止まったような秋空に一陣いちじんの風が東の方から吹いて来た。思わず息を止め、数珠を翳して経文を唱えた。その瞬間、玄空大師の厳しい声が響いた。

 【カーツ!】

 玄空大師が眉根を寄せて、西院の通りを旋風が吹き抜けるのを見届た。

 「お大師様?如何なさいましたか?」通り合わせた僧が、何事かと問い掛けた。

 僧の声で我に返った玄空大師が、その僧に言った。「この通りを風となって霊が通り抜けたのじゃ。如何なる霊かは分からなかったが、咄嗟のことで万一に備えてしもうたのだよ。だが、案ずることはなさそうだった。…つまり、悪霊ではなかったようじゃ」そう言うとニッコリ笑って見せた。

 説明されても現実味のないことだったので、ポカンと開けた口を戻して、おずおずと質問した。「お大師様、天安寺に霊が現れるのでしょうか?今のは悪霊ではないとは、天安寺にも悪霊が現れることがあるとお思いなのでしょうか?」

 玄空大師はいつもの優しい表情で語り始めた。

 「天安寺は都の鬼門を鎮護する寺ではあるが、現世と来世のはざまに近く、霊の存在しない場所ではないのじゃよ。霊は人の心に近く存在し、人がいる限り霊は身近なものであるのじゃよ。わしにも、そなたにも守護の霊が御座しますのじゃよ。ただし、今しがたの霊はどのような訳を抱えているのか考えねばならぬようじゃ。何ぞの訳を抱えているものか、使命を帯びているものかをな?」

 玄空大師は、その場を去ると、その夜に自分の部屋で霊のことばかり考えた。『あの霊は西院のいずれかのお堂に入ったのだろうか?僧の霊には間違いないようだ』しかし、いくら考えてもそれ以上先に進むことはなかった。

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