安普請 その5
薬師堂に以前のような落ち着いた日々が戻った頃、都では岳屋清兵衛の周辺が騒然としていた。伊蔵が宇土屋の仲間に入ったことが事の始まりとなって、岳屋配下の数人の棟梁達が宇土屋のもとに集まったのだった。そればかりか、
岳屋清兵衛は配下の裏切りに激怒した。報復をするにも離れて行った者達が余りにも多く、下手をするとまだまだ増えることも考えられた。思案した挙句、これ以上離れる者を防ぐために残り全員を集めて侍達の前で恫喝した。
「離反する者は容赦なく切る」侍は薄ら笑いを浮かべて脅し、大工達は、腰に刀を下げた侍に怯えるだけだった。
侍は全部で5人。皆、人を切ったことがありそうな顔をしていた。
大工達は絶対に離反することはないと誓い、それぞれの家に戻って行った。
岳屋清兵衛は、宇土屋喜兵衛に憎悪した。伊蔵が裏切ってからずっと恨み続け、やがて殺意が芽生えた。
岳屋が侍達に言った。「お侍方、今宵は大工達の引き締めが上手く行きましたので、些少ですがこれで酒代の足しにして下さい。明日はもうひと働きして頂きますが、脅しじゃなく事によったらバッサリやって頂くことにもなりましょう。今夜はゆっくりお休み下さい」
岳屋清兵衛は上機嫌だった。天安寺で床下の検分をして以来、腹立たしい日々が続いたが、これですべて元通りになるばかりか、宇土屋の仕事もすべて手に入るかも知れないと思うと実に愉快だった。
次の日の
「お侍様方、東山の宇土屋の屋敷はご存じでしょうか?私は1人、お侍様は1人と2人、2人に分かれて目立たぬように参りましょう。屋敷の
侍達はせせら笑いながら、女房を手始めに1人ずつ血祭りに上げると脅した。
宇土屋喜兵衛は祈った。ひたすら
女房が土間に引き出され首を前に突きだされた時、宇土屋喜兵衛は観念して金のありかを明かした。
2人の侍が金を探し出して土間に持ち込んだ時、侍達の
宇土屋は仰天した。目の前に立っているのは裏門の毘沙門天だった。
宇土屋はすぐに理解した。女房と使用人の縄を解くと皆に厳しく言った。
「表に構わずひたすら御仏にお祈りするのだ!命の危機をお救い下さったことに、
宇土屋の使用人達は、14才の小女に至るまで信心深かったので、主人の厳しい指示より早く、皆揃って合掌して経を唱えていた。
屋敷の外に放り出された5人の侍が、金剛杵と太刀の峰でしたたかに打ち据えられていた。5人は既に仏罰を受けていることを実感し、恐怖に震え上がった。人の力では到底抗えぬ相手を前に、命の無事をひたすら願うのみだった。侍達は遠のく意識の中で、1町(100m)ほど先の辻に目を遣った。そこには、岳屋清兵衛が物陰から様子を覗く姿がハッキリと見えていた。侍達は悶え苦しみながらも、手を伸ばして岳屋に救いを求めた。
毘沙門天が1町先に目を止め、岳屋清兵衛をジッと見遣った。
岳屋は毘沙門天が自分を見たことに気付いた。肝が縮み上がるほど恐怖に震え、背を向けて逃げ去った。途中で何度も振り返り、追手がないことを確かめた。命からがら右京の屋敷に着くと、神棚に手を合わせ、仏壇に額ずき神仏に祈った。女房の問い掛けにも
「これを天安寺の薬師堂に持って行き、素空様にお渡しするんだ。岳屋からの寄進だと言って、今後、仁王様と毘沙門様に手出しをさせないようお願いしますと伝えるんだ。くれぐれもお願いしますと伝えておくれ。頼んだよ」岳屋清兵衛は何時になく念押しをした。
平太が天安寺の薬師堂に着くと、素空が留守と言うことが伝えられたため、住職に目通りを願った。栄覚大師が平太に応対したが、寄進された金子をひと目見た時、岳屋に異変が生じたことが読み取れた。
栄覚大師が言った。「平太様、ありがたく頂戴するとお伝え下さい。また、御仏に岳屋様の家内安全をお祈りいたすこともお伝え下さい。ただし、岳屋様が心から願わねば私共の祈りも無駄な願いとなりましょう。よしなにお伝え下さい」
平太は栄覚大師の言葉を確かに伝えると言って帰って行った。
栄覚大師は金子を持って、興仁大師を訪ねた。その後、勘定方の
翠考が
翠考は最後にキッパリ言った。「わしには初めから分かっておったのじゃ。…いいや、このことは素空にも分かっておったやも知れんのお…」
栄覚大師は心地よい思いで、翠考の言葉に頷き、素空の不思議がまた1つ増えたように思った。
瑞覚大師は以前と変わらない心地よい日々を取り戻し、栄覚大師に向かって一言呟いた。「栄覚や、わしの部屋は安普請と変わらぬものであったが、御仏の計らいでこよなく住み心地の良いものになったよ。この先、岳屋清兵衛が、宇土屋喜兵衛の如くにあらんことを願うばかりじゃ」
玄空大師が答えた。
「御仏に向かう心は、岳屋様がそう望まぬ限り得ることはできません。私も同様に、僧としてそうなることを願うばかりです」
瑞覚大師も僧として無力だと言うことを実感して呟いた。
「天安寺では御仏の側近くでひたすら修行し、悟りを得ることを目指すのじゃが、
瑞覚大師が自嘲気味に呟いた言葉は、栄覚大師の胸にズシンと応えた。栄覚大師は、素空が天安寺を下りた後、諸国行脚をすると言った言葉を思い出した。考えると、悟りを得た者にとっては至極当然のことだったと、今になって初めて気付かされたのだった。
2人が岳屋の信心を祈り、我が身を振り返ったこの日から3年後に、右京の岳屋清兵衛は店を閉じ、信心の芽を出さないまま、失意のうちに他界した。
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