安普請 その4

 「天安寺の大事の前に、御仏は実に深いお考えをお示しになられたようだ」玄空大師が語ったのは、栄覚大師が玄空大師の部屋に上がり、栄雪を頭として薬師堂の溝掘りに、東院の若い僧達の力添えを願いでた時だった。

 栄覚大師は、玄空大師の言葉を理解した。天安寺の大事とは瑞覚大師の往生おうじょうの日のことで、その前に天安寺の僧達が力を合わせて仕事をすることは意義深いことだった。天安寺にあって、東院、西院の区別なく僧として修行に没頭できる場を設けることは瑞覚大師の念願だったのだ。

 翌日、東院の僧が薬師堂の裏手に集まった。明智によって選ばれた若い僧達が、栄雪の指揮で崖下の溝掘りに取り掛かった。掘った土は床下に運ばれ、地面を均す者、盛土を固める者、高さを測る者と、それぞれに懸命に働き、昼までに床下の地均しは終わった。栄雪は昼食をすませると皆を集めて、『明日から10日のうちに溝を完成させる』と宣言した。明日は床板修復の材料が運ばれ、明後日に床下の工事が始まることを伝えると皆を労った。「皆様、今日はこれで終わりますが、明日からは石垣も組まねばなりません。今宵はゆっくりとお休み頂き、明朝、辰の刻たつのこく(午前8時)にここにお集まり下さい」

 栄覚大師と明智が近くで聴いていた。「栄雪、なかなか堂に入ったものですね。薬師堂の裏道を造った時を思い出しましたよ」明智の言葉に振り向くと、明智の横で栄覚大師がにこやかに微笑んで言った。「明智様のおっしゃる通りです。大勢の人を動かす時には、栄雪の力が欠かせないようですね」栄雪は微笑み返して応えた。

 瑞覚大師の居室の修繕は7日のうちに終わった。崖下の溝もあと僅かででき上がり、宇土屋と伊蔵は最後の確認をしていた。宇土屋は、工事も伊蔵ばかりに任せず、納得のいく修繕工事にしたかったのだ。伊蔵は宇土屋と共に数日間を過ごし、宇土屋喜兵衛の人柄に心酔した。

 伊蔵が初め口籠りながら、やがて、意を決して宇土屋に願い出た。

 「宇土屋様、この度初めてお側近くでご一緒いっしょさせて頂き、お人柄と業の確かさに心底感服いたしました。どうか、私共を宇土屋様の配下にお加え願いたいのです」

 伊蔵の真剣な目を見ながら、宇土屋喜兵衛が答えた。

 「この道じゃ仲間を抜ける者には色々な難題が降り掛かり、新たな仲間に対しても馴染むまでは多くの辛抱が要るのですよ。あなたお1人ならともかく、配下の職人の気持ちもお考えでしょうか?」

 伊蔵が語り始めた。「私共は岳屋さんの先代からお世話になっていますが、配下の全員が私の思うようにしてくれと、任せられています。みんな宇土屋様のお人柄に惹かれているのです。どうか一門いちもんにお受け入れ下さい」

 宇土屋喜兵衛は考え込んだ末に結論を口にした。「伊蔵さん、お申し出はありがたいが、私も岳屋さんも多くの棟梁衆を束ねる元締めです。岳屋さんには急場を助けてもらった恩義があるのです。どうかこの話はなかったことにして頂けませんか」

 伊蔵は落胆した。心の支えをなくして、立っていられないほど動揺した。

 伊蔵は溝の検分をした後、何気なく表門に足を向けた。境内の途中から吸い寄せられるように仁王像の間に立ち、物思いに耽っていた。

 「伊蔵殿、何やら憂い思うことでもおありかな?」突然声を掛けられて振り向くと、玄空大師が慈愛に満ちた笑顔を見せていた。

 「伊蔵殿、この仁王像をよく御覧なされよ。人が彫り上げた木彫りの像ではあるが、仁王様は生きて御座おわすのじゃよ。そなたにはどう見えるかな」玄空大師の言葉に、不意を衝かれたように仁王像を凝視して答えた。「お大師様、あっしにはただの木彫りの像にしか見えません」

 玄空大師が言った。

 「伊蔵殿、これ即ち信じる者には見え、信じる術を知らぬ者には見えない道理なのじゃ。心のありようが目を曇らせ、見える筈のものも見えなくなるのじゃよ。そなたの心の憂いを聴かせてはくれまいか?」

 伊蔵は心を見透かされているような、玄空大師の深い眼差しに心を開いた。伊蔵は、宇土屋喜兵衛に訴えたことをすべて語り、玄空大師は暫らく考えて言った。

 「この世のことはすべて御仏の御導きによるものなのじゃ。伊蔵殿の思いの通りになるか、はたまたならぬかは御仏の思召しと心得なされよ」そう言うと優しく微笑んで裏門の方に歩きだした。伊蔵は1人仁王門に残され、何時までも阿形尊と吽形尊を見詰めていた。

 玄空大師が裏門の厨子の前に来ると、宇土屋喜兵衛が毘沙門像に何やら願っていた。玄空大師が声を掛けると、にこやかに言葉を返した。宇土屋にとって、玄空大師とは気が合うばかりでなく、天安寺で最も尊敬する存在だった。

 玄空大師が言った。

 「宇土屋殿、そなたは天安寺に永く出入りをしながら、事もあろうに寺のうちにあって殺生をするおつもりかな?」

 宇土屋喜兵衛はきつねにつままれたような顔をして、玄空大師を見返して言った。「お大師様、それは一体いったいどのようなことでしょうか?」

 宇土屋が言うと、玄空大師は悪戯っぽい眼差しで語り始めた。

 「伊蔵殿にすべてを聴いた上で申すのじゃよ。古来より、窮鳥懐に入らずんば猟師もこれを殺さず。そなたは懐に入って来た伊蔵殿を野に放ち見殺しにしようとしているのではないのかな?伊蔵殿は苦難を承知でそなたに身柄を預けようとしたのじゃよ。それを承知で受け入れるならば、これは御仏の御慈悲に適うことであるよ」

 宇土屋喜兵衛は涙のうちに、玄空大師の言葉に従った。この日を境に伊蔵とその配下全員が、宇土屋喜兵衛の一門に加わることになった。

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