安普請 その2
栄至は
仕事が忙しくこのところ酉の下刻(午後7時)頃ならないと戻らないのだが、使いの知らせに応じてすぐに帰って来たのだった。栄至がすまなさそうに事の顛末を語り始めると、宇土屋は驚き、途中で何度もくちばしを入れた。
宇土屋喜兵衛は疲れた体に気合を入れるように立ち上がり、ウノと言う若い衆を呼んでこの日のうちに、明朝栄至を伴なって訪問することを、岳屋に伝えさせた。
宇土屋が言った。「明日の準備は済みましたので、今夜はこちらにお泊り下さると都合がよろしいのですが…如何でしょうか?」
栄至がすまなさそうに答えた。「今回も、既に岩倉屋様に今宵の宿をお願いしています。明朝は
栄至がそう言うと、宇土屋はこれもすまなさそうに
岩倉屋では遅い夕食を摂り、湯も使わせてもらった。ホッとする間もなく、仏間に入り経を唱えようとしたが、既に家人達が座して口々に経を口ずさんでいた。皆信心深く、温厚な人柄のように 見えた。『これは素空様のお導きによると聞いているが、本当に根付いているのだろうか?』栄至はぼんやりと家人達を見ていた。
「栄至様さあ前にお詰め下さい」岩倉屋惣左衛門が、栄至のすぐ後ろから声を掛けた。栄至はドキッとして振り返った時、頭をガンと打たれたような衝撃を覚えた。
栄至の前には
『私は
四半時(30分)ほど敬虔な声が響いたが、栄至の瞑想と共に仏間に静寂が広がった。栄至は自分の心を見詰めていた。岳屋清兵衛への偏見が自分の心を歪めていたことを省み、明日は無心で接することを心に誓った。
翌日、卯の下刻(午前7時)に宇土屋の屋敷に着くと、約束は辰の刻(午前8時)に岩倉屋を発つのだったが、気がせいてこの時刻になったのだが、栄至は、職人達が出入りし始めるまで外で待つことにした。
京の朝はまだ始まっていないのは、通りの様子ですぐに分かった。行き交う人もなく、時折物売りが通り、木戸が開いて買い物をする姿が見られるくらいだった。栄至は木戸の前で密かに経を唱えた。ジッと通りを見ている様子だったが、笠の下の目は閉じられ、無心となって声もなく唇だけが動いていた。栄至は僧としてするべきことを淡々とすることが、これほど気持ちの良いことを初めて体験した。
やがて、木戸が開き、宇土屋の使用人が驚いた顔で迎え入れた。
辰の刻(午前8時)にはまだ早く、栄至は使用人にすまなさそうに挨拶した。木戸を潜ると、宇土屋喜兵衛が裾をからげて脚絆を付けた姿で庭に出ていた。
宇土屋喜兵衛が言った。「栄至様、お早いですね。せっかくですから参りましょう」宇土屋喜兵衛は昼の弁当を2つ背負って、上機嫌で木戸を潜って表通りに出た。
栄至は、宇土屋の後ろを歩きながら考えた。『岳屋が床の修繕を断ったら、宇土屋さんが代わってくれるのだろうか?そもそも、床が抜けたことは岳屋の責任なのだろうか?使った材料が悪かったから腐れ落ちたのだろうか?梅雨時の湿気が床板を腐らせたのなら、岳屋の責任ではなさそうだ』栄至は考え尽くすと、それを宇土屋喜兵衛にかいつまんで尋ねた。
宇土屋喜兵衛が笑顔で答えた。「栄至様、岳屋さんのところで話の遣り取りの中でお答えいたしましょう。もう暫らくで着きますから、楽しみにお待ち下さい」
やがて、岳屋清兵衛の屋敷に着いた。宇土屋喜兵衛はこれまで見せたことがない厳しい顔で屋敷の中に入って行った。
出迎えた岳屋が、宇土屋の顔を見た瞬間から、同じように眉根を寄せて厳しい顔をした。2人の棟梁はこの時から火花が散るような交渉が始まることを予感させた。
「宇土屋さん、それじゃ床が落ちた責任がうちにあるとでも言っているようじゃありませんか!」岳屋清兵衛が声を震わせて怒った。
宇土屋が薬師堂の床が落ちたことを、栄至から聞いた通りに話したところだった。栄至は、2人の話には
岳屋からの帰り道、
宇土屋喜兵衛が語り始めた。
「栄至様、岳屋さんは修理でまた
栄至は岳屋が何を承知するのか分からず尋ねると、宇土屋喜兵衛はニッコリ笑って答えた。「栄至様、天安寺に戻られたら、素空様にお出まし願うようお伝えください。庫裏の増築の際に勘定方をされておいででしたから、今回もそう願いたいと…。今回ばかりは胸のすくような結末になって欲しいものです…」宇土屋は
栄至は、宇土屋が語り終わるとすまなさそうに、素空が
その日栄至は早々に天安寺に戻って行った。
明智が言った。「栄至、ご苦労でした。素空様の代役をどなたにするか、玄空様にお伺いをした方が良いでしょう。早速私と参りましょう」
2人が玄空大師に用向きを伝えると、玄空大師が即座に答えた。「西院のこととなれば
栄至は、玄空大師のてきぱきとした指示に敬服した。それからすぐに、西院の興仁大師のもとを訪ね用件を説明すると、興仁大師はすべてを承知したと答え、栄至は薬師堂に栄覚大師を訪ねた。
栄至は、栄覚大師の部屋で、宇土屋と岳屋の話の内容をすべて語った。
興仁大師の意向として、勘定方として明日の検分に立ち会って欲しい旨を伝えた。
栄覚大師は「それで、宇土屋様は床が抜けたことをどのようにおっしゃったのですか?」栄覚大師の興味は専らこのことに尽きるようだった。
栄至が答えた。「明日、宇土屋様も薬師堂に参るとのことでしたが、今はハッキリとは仰せではありませんが、岳屋様に責任があるものとお思いのご様子でした」
栄覚大師は暫らく考えていたが、納得がいった様子でニッコリ笑った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます