第3章 安普請 その1

 素空と悠才は2体の仏像を彫っていた。1尺いっしゃく(30cm)ほどの薬師如来像やくしにょらいぞうを、素空の彫り方を凝視した後、自分の材料に忠実に再現するのが悠才の遣り方で、素空も良い方法だと勧めた。悠才の仏師としての腕前は日に日に巧みになり、師走しわす(12月)の頃には仁啓や法垂を凌ぐほど上達した。

 この年の冬は雪が多く降り、霜月しもつき(11月)の初めから天安寺は雪景色になった。

 素空と悠才は仏像を彫る時だけは一緒いっしょだったが、素空には老僧高僧を訪ね、僧としての見聞を広める、新たな修行も始まっていた。

 さかのぼって9月には、素空は鞍馬山くらまやままでの回峰行かいほうぎょうを行った。悠才は同行を願ったが、許されなかった。更に、素空は寺にいる時は殆んど毎日、崇慈すうじの書庫に通った。崇慈大師に勧められた書物を借りて行くと、その日のうちに読み終わり、翌日新たに借りて行くのだが、初めのうちはすべてを読まずに返しているものと思われていた。そうでないことに崇慈が気付いたのは、3冊目の蔵書を貸しだした時だった。崇慈が最初に貸した分厚い書物の内容をわざと間違えて話すと、素空はすまなさそうにそのくだりを1字1句間違えることなく訂正した。崇慈は、素空の才知を疑ったことを恥じて、そののちは決して試すことがなかった。

 また、西院では新堂の座主ざす栄信えいしん志賀観音寺しがかんのんじ松石しょうせきが大師の認可を受けて、それぞれ栄覚大師えいかくだいし松仁大師しょうにんだいしとなり、ここに瑞覚大師ずいかくだいし興仁大師こうじんだいしの思いが成就した。釈迦堂しゃかどうには東院からも多数の僧が列席して2人を祝福した。この日は素空が回峰行を始めて10日ほど経った頃で、栄覚大師や松仁大師には少々寂しい思いがあった。栄覚大師は薬師堂やくしどうの庫裏で、松仁大師と共に昼食を摂った。祝いの膳と言っても顔ぶれだけが豪勢で、膳の上はいつも通りだった。興仁大師を始めとする西院の4人の大師、玄空大師を始めとする東院の3人の大師や2人に所縁ゆかりの深い20数名の僧達が膳を頂いた。明智みょうち栄雪えいせつは言うに及ばず、灯明番や仏師方だった者が大半だったが、その中に素空の代理で、悠才もいた。

 庫裏の広間には30人を超す僧達が半時はんとき(1時間)ほど歓談し、話しの流れから素空の薬師如来像を拝観することになり、瑞覚大師の部屋に詰め掛けた。薬師如来像をまだ見ていない僧も何人かはいたが、多くはこの機会にもう1度拝観したいと思っていた。

 瑞覚大師の後に続いて10数人の僧が部屋に入った時、部屋の畳が大きくたわんだかと思った瞬間、ゆかが抜けて10人ほどの僧が床下へと落ちて行った。

 幸い、僧達に大きな怪我はなく、擦り傷と打ち身程度で、大事に至らなかった。祝宴は台無しになり、殆んどの僧達が無事を確認した後帰って行った。

 庫裏で、瑞覚大師と興仁大師に向き合って、玄空大師と明智が座り、両者を分けるように栄覚大師と松仁大師が座った。話は簡単に決まった。明智が言った。「京に遣いを出し、先ずは宇土屋喜兵衛様うどやきへえさまに知らせた後、岳屋清兵衛様たけやせいべえさまを動かさねばなりません。早速、栄至えいしに支度をさせましょう」明智はすぐに席を立ち、栄至の後を追った。

 玄空大師が言った。「それにしても、瑞覚様にお怪我がなかったのは幸いでした。床がかなり高かったにも関わらず、僧達にも大した怪我がなかったのは、御仏のありがたい御加護があったのでしょう」

 栄覚大師が、玄空大師に語り掛けた。「お大師様、岳屋様が1月ひとつきで仕上げたことをお褒め下さらなかったのは、このようなことをご案じなされたからでしょうか?」

 玄空大師は、栄覚大師に微笑みながら答えた。「栄覚や、わしに分かっていたことは、人が成したることには、すべからくその人の人となりが表れるのであると言うことだよ。わしは、宇土屋殿の人となりを良しとし、岳屋殿のそれを好まなかっただけであるよ。岳屋殿が宇土屋殿のようであれば良かったのじゃが、少々欲が先を行っていたやも知れんよ」

 栄覚大師は1月ひとつきの仕事に驚き、職人としての腕のしまで決め込んで、仕事振りに落ち度がないか注意を払うべきだったと悔やんだ。そして、部屋の真ん中に高齢の僧がいなかったことは幸いだった思った。玄空大師が言ったように、確かに仏の加護があったことに感謝した。

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