仏師の目 その5

 素空は久し振りに玄空大師のもとを訪ねた。用向きは明らかで、心の真ん中に居座った疑問を解決するためだった。

 「素空や、久し振りじゃな。神妙な顔をしているが何ぞ困り事ができたのかな?」玄空大師は、素空の心を覗くように語り掛けた。

 素空が言った。「7才よりお世話頂きながら、お大師様のお若い頃のことを一切伺いっさいうかがうことがなかったことを恥じ入るばかりです。私が御仏像の手入れを始めて以来、今日こんにちまで、数多の御仏像の中に、私が遠く及ばない2人のお方を知ることができました。お1人は玄武堂げんぶどうの仁王像を手直された虚空様こくうさまで…」この時、玄空大師の表情が変わった。

 「もう1人は鳳凰堂ほうおうどうの千手観音菩薩を彫られた真空様しんくうさまです。このお2人のことに付いて、お大師様がご存じのことがありますればお教え願いたいと思いまして参りました」素空が語り終わった時、玄空大師は顔を上向きにした後、ジッと目を閉じ瞑想した。素空は、玄空大師の素振りが何を意味するのか察した。

 やがて、玄空大師がおもむろに口を開いた。

 「わしの師はまさに、玄武堂の仁王像を手直したと言う虚空様なのじゃ。真空様が如何なるお方かは分からないが、そなたが思うように何かの縁があるのかも知れないのじゃが、わしは我が師に多くを学んだが、修行中の素空と同様に師のことを深く訊くことはなかったのじゃよ」

 玄空大師は一息吐ひといきつくと、素空を優しく見詰め、虚空のことを語り始めた。

 「虚空様は、わしなど及びも付かないほど優れたお方であったが、わしが鳳来山に上がった後、寺を去り諸国を行脚あんぎゃしたそうなのじゃ。わしが寺にいた頃も年に4度は托鉢と称して10日ほど留守にしていたのじゃが、わしが御本山に上がったのを機に、自由気ままな諸国行脚の道を選んだのであろうよ。わしが御本山に長く留まっていたら、再会の機会があったのだろうが、そなたも存じているような始末となってからは、まみえることができなくなったのじゃよ」玄空大師は寂しそうに眉根を寄せ、ジッと目を閉じた。

 やがて目を開き、また語り始めた。「わしは、我が師に彫り物を学んだことがなかったのだが、寺にあった数多の彫り物に接しているうちに、工夫に工夫を重ねて会得したのじゃよ。ちょうど御本山に上がって3年後のことであった。御本山は仏師としての修行をするにはもってこいの場所だったのじゃ。司書をしながら、書院の隅で彫り物に集中していた頃が最高の時であった」

 この時、素空が口を挟んだ。

 「お大師様は、玄武堂の仁王像をご覧になったのでしょうか?」玄空大師は首を横に振りながら答えた。

 「いいや、若い頃は東院から出ることがなかったのだよ。昨年再び御本山に上がってからは、そなたも存じている通り、玄武堂に足を向ける暇もないほどであったが、ましてや、我が師が玄武堂の仁王像に手を入れたとは知る由もないことであった。いずれまた、玄武堂には参ることになろうが、師の面影に触れて涙することであろうよ」玄空大師はそう言うと、素空を見てにこやかに笑った。

 素空は、玄空大師の慈愛に満ちた笑顔の裏に悲しみの陰があることを知った。

 素空が言った。「もしや、お大師様は、虚空様が旅路の果てで既に身罷られているとお思いでしょうか?」

 素空の気遣わし気な言葉に、玄空大師が答えて言った。

 「我が師は既に傘寿さんじゅ(80才)を過ぎているのじゃよ。わしとは2回りふたまわりほどの年の差があったのじゃ。…そう思うのも当然のことではないだろうか?」

 素空は、玄空大師が案じてもどうにもならないことへの諦めとも取れる言い方をしたことに一抹いちまつの寂しさを感じ取った。この時、素空は天安寺を下りたら虚空の消息を尋ねようと密かに思った。

 この日から20日後に東院の手入れが終わった。仏師達は、玄空大師の部屋でねぎらいの膳を頂くことになった。

 玄空大師が、素空に言った。「志賀観音寺しがかんのんじや、孝衛門殿こうえもんどのの屋敷でのもてなしのようには行かぬが、今宵はくつろぐが良かろう」

 玄空大師は終始にこやかに、仏師としての蘊蓄うんちくを語り、3人の技量の助けとなるよう伝えた。仁啓と法垂はこの楽しい宴が仏師方の解散の時だと言うことに、一抹の寂しさを感じていた。

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