仏師の目 その3

 素空と仁啓、法垂、悠才は仁王門の拝観を終わり、本堂の脇道を1町いっちょう(100m)ほど先にある厨子の前まで歩いた時、厨子の扉がひとりでに開き、毘沙門天が、厨子の前に立つ悠才を覗き見るように眺めた。悠才は既に察していたが、毘沙門天の姿を見て、自分が仏のもとに召されるのが間近なことを確信した。不思議なことに心が落ち着き、不安や恐れなどは微塵も感じることはなかった。却って、仏に召される喜びで心が満たされて行くのを快く感じるほどだった。

 「素空様、このように私達にも容易に見ることができるのは、どのような訳でしょうか?」仁啓の問いに、素空が答えた。「皆様、自信をお持ちなさいませ。仏師として真贋を見分ける力を身に付けようとしているのです。今この時から1時いっとき(2時間)が10日に等しいくらいに得るものが多くなることの始まりでしょう。3日の間しっかりと修行をなさいませ。身を清め、御仏の御慈悲を賜るよう心を磨くことが肝要です。今まさに、時を得たりと言うことなのです」

 3人は素空の言葉に深く感じ入った。特に悠才は、死の直前まで仏道を極めようとするのは僧の本懐だと気付かされた思いだった。

 次の日も、素空達は薬師堂を訪ねた。この日、仁啓、法垂、悠才の3人は仁王門の格子の中に入り、蜜迹金剛みっしゃこんごう那羅延堅固ならえんけんごを間近で見ることにした。仁王像はいずれも真の姿を現し、悠才は間近で動きと息遣いを体験したが、不思議に恐れることはなかった。真の姿は悠才の体と心を包み込み、普段の形相とはまったく違って、優しさに溢れる顔を見せた。既に悠才にはその意味が分かっていたのだったがそれにしても狼狽することなく、安らぎを感じることが不思議だった。

 悠才は、阿形尊の格子の中で暫らく安らいだ後、吽形尊の格子の中に入った。吽形尊は眉をひそめ悲しみの表情を見せながら悠才を包み込んだ。悠才はこの時、仏の慈悲に包まれているような安堵感を全身で感じていた。

 仁啓と法垂は、悠才の側で具に見ていたが、2人には殆んど動くことのない仁王像にもたれかかる悠才だけが目に入った。何やらまどろみの中にいるような表情を見せながら、悠才はこの世の幸福を一身いっしんに受け止めているようだった。悠才が妄想の世界から脱したように格子の外にでた時、仁啓と法垂はそっと悠才の肩に手を置き言葉もなく見つめた。この時、悠才は自分が死に至るまでの間、決して1人ではないことを知り、何と満たされた心を持って死を見詰めている自分に驚くばかりだった。

 3人は何度も格子を行き交い、存分に仁王像を検分し、経を唱えた。仁啓と法垂にも、仁王像の動きがハッキリと見えているのだが、悠才とは違い、建立当時の動きを現しているに過ぎなかった。これは、見る者の心のありように応じて姿を現す、仏の変幻自在の働きによるものだった。

 悠才は仏師としての我に返ると、入念に仁王像を検分した。悠才には彫りの道具をどのように使えばこのような精緻な像ができるのかよく分からなかったが、仁啓と法垂に尋ねながら頭の中で道具を動かした。

 悠才が言った。「仏師方の皆様は、昨年はまことに素晴らしいお働きをされたのですね。朱雀像を彫り上げた今になって、初めてそのことが分かります」悠才は、多くの質問に的確に答えてくれた2人に尊敬の念を込めてそう言った。

 仁啓が言った。「私達も仏師方に入るまではまったく分からないところから、素空様や、明智様に手ほどきを受けたのです。悠才は既に朱雀像を仕上げているではないですか。私達との腕の差は殆んどないのですから、もっと自信を持ちなされ」

 3人はほぼ半時を仁王門で過ごし、庫裏に向かった。

 素空は仁王門を潜るとすぐに本堂に赴き、栄信と話をした。瑞覚大師の様子を前もって訊くのが目的だったが、2人だけの時間は何より大きな喜びで、ついつい長話になるのだった。やがて本堂に、淡戒たんかい胡仁こじんが3人の仏師達と一緒いっしょに遣って来た。

 「そろそろお大師様のお部屋に参らねばなりませんね」栄信の言葉で、素空が立ち上がった。「ハッ!うっかりしていました」素空がおどけた素振りでそう言うと、栄信と淡戒、胡仁の3人は、大きな声で笑った。素空は、悠才と共に手入れをするうちに、おどけた言葉や冗談に馴染んでいた。気の置けない仲では時折そんな姿を見せるのだったが、人と人との仲を取り持つ潤いの素だと心得ていた。

 「何やら楽しそうじゃな。わしも仲間に入れてくれまいか?」瑞覚大師が満面の笑みで本堂に入って来た。上機嫌で、足腰も達者で、素空には、初めて天安寺に来た頃と変わりないように見えた。

 素空は立ち上がったまま言葉を返した。「お大師様、今お部屋に伺おうとしたところでした。ここでの長話は疲れましょうから、お部屋の方に参りましょう」

 瑞覚大師は笑顔を崩さず皆に言った。「わしの体を案じてくれるのはありがたいことじゃが、このところ随分調子がいいのじゃよ。年が明けるまでは死にもしなければ、皆に世話を掛けることもないだろうと思うのだよ」そう言うと、瑞覚大師は皆の顔を1人ずつ見ながら微笑んだ。

 栄信が尋ねた。「お大師様、それは一体いったいどのような訳でしょうか?」皆が瑞覚大師を覗き込むように見た。

 瑞覚大師はなおも笑みを浮かべて語り始めた。「昨夜、わしは思い当たったのじゃよ。わしが日々達者なことは御仏の御計らいであるとな。しからば、この魂をお召しのその日まで修行をし、悟りを得んと思ったのじゃよ。知っての通り、僧と言えども悟りを得る者は少なく、死する時までには悟りを得たいと願うばかりだよ」

 栄信は、瑞覚大師を気遣いながらもその言葉の通りに、悟りを得ることを願った。

 その時、悠才が誰に問うでもなく言った。「悟りとはどのような形を言うのでしょうか?」ポツリと言った一言ひとことは、小坊主の頃から『御仏の如くあれ!』と教えを受けて以来、漠然とそのようにあるべき姿を求めているに過ぎないのだった。

 瑞覚大師は笑みを掻き消して、真顔で悠才を見詰めた。悠才が口にしてはいけない言葉だったかもしれないと心細くなった時、悠才の顔を見詰めたまま瑞覚大師がしっかりと噛み締めるように語り始めた。

 「よいか悠才、悟りとは御仏の如くあることじゃ。…とは言っても、これは小坊主の頃に学んだことじゃろうが、まさにその通りなのじゃ。そなたが悟りを得たとしたら、御仏の御姿をその目で見ることも、語り合うこともできるじゃろうよ。人が人と語るがごとく、悟りを得て仏となりし者は御仏と語り合うことができるのじゃよ。人としての姿はそのままに、魂は御仏と変わることがない悟りの境地を得るのじゃよ」

 瑞覚大師は語り終えると、悠才を慈愛溢れる表情で見詰めた。

 悠才は、伏目がちに、かねてから心の隅に居座っていることを尋ねた。「お大師様、私は御仏像の中に真の御仏を見ることができるようになりたいと思っております。時折目にすることができますが、それは恐らく素空様がおいでの時に限られているようなのです。御仏が御降臨した時に、この目で見ることができると言うことは、悟りを得たと言えるのでしょうか?」

 瑞覚大師は笑顔を向けて語った。「悠才や、悟りと御仏の御降臨に与ることは分けて考えるべきだよ。御仏の御降臨を目にすることができると言うことは、心の良い状態の時に限られるのだが、この時死せるならば極楽往生をすることができ、魂は仏となるのじゃよ。ただ、悟りは生あるうちに御仏の如くにある、と言うことであるから、更に至難の業となるのじゃよ」

 瑞覚大師は、語り終えると悠才に微笑んだ。悠才は笑顔を返しながら、瑞覚大師に自嘲気味に言った。「お大師様、私など生あるうちに御仏の如くなど決してなれそうにありません」この言葉で、皆は自分のことを省みた。誰しも高い目標に挫折を経験しながら更なる高みを目指すのだった。

 瑞覚大師は最後にひとこと付け足した。「悠才よ、誰しも悟りを求め修行をし、道半ばで死するのじゃが、それも来世の約束に繋がることとして良しとすべきなのじゃよ。玄空や素空のように、生あるうちに悟りを得る者は極めて稀なのじゃよ」そう言うと素空の顔を見ながら微笑んだ。皆が素空を見ると、素空が瑞覚大師の言葉を否定した。「私は修行の身でありますれば、悟りとはなお遠い彼方のことなのです。1歩1歩確かに歩むことが悟りへの道ではないかと存じます。そして、仏師としてもしかりなのです。1歩1歩確かに修練を積むことが真の御姿を写す術となるのです。僧としても仏師としても、己の身を御仏にのみ向かいて生きることが肝心なのです。その時、真の御姿を目にすることができましょうし、御仏の御降臨に与ることもできるのです。是即ち仏師の目を持つことに他ならないのです。そして、仏師の目は精進すれば必ず得ることができるのです」

 「重畳、重畳」素空の言葉を受けて、瑞覚大師が締めの決まり文句を言った。

 仁啓と法垂は、この時、薬師堂で3日を過ごす意味に気付いた。このことは、そもそも悠才の希望だったのだが、悠才の悟りに付いての問い掛けによって、間もなく悠才が仏の前に召される予感を更に強くしたのだった。

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