仏師の目 その2
素空と栄信は、瑞覚大師の部屋で多くを語り合ったが、
「お大師様、表門と裏門を拝見して参りました。遅れましたがご挨拶をいたしたく存じます」障子越しに仁啓が声を掛け、瑞覚大師は上機嫌な時の声で招じ入れた。
瑞覚大師は、3人に守護神を見た感想を訊いた。興仁大師のお付きの僧、
「表門も、裏門も実に見事なでき栄えでした。仁王様は建立当時と趣が変わり、昨年より更に力強く感じました」仁啓が、法垂と目を合わせながら答えた。
瑞覚大師は次に、悠才に尋ねた。悠才が
瑞覚大師は聴き終わると、フーッと
「お大師様、こちらが素空様が献上された薬師如来像でしょうか?…噂に
瑞覚大師は暫らく考えて言った。「悠才や、手に取ってよく見なさるが良いぞ。さあ、遠慮は無用じゃ」
悠才は初め躊躇したが、手に取って眺めたいと言う強い興味に押されるように部屋の
素空が気遣わし気に声を掛けたが、悠才は溢れる涙の中で何も答えられず、激情の渦に翻弄されているようだった。
暫らく
瑞覚大師はどのような形であれ、悠才が真贋を知ったことを喜んだ。そして、悠才が見るのではなく感じることに思い当たった時、白虎像の不思議に触れたことが何となく理解できたような気がした。
瑞覚大師はこの日上機嫌で、初めから終わりまで、
素空が言った。「お大師様、お疲れでしょうから今宵はごゆるりとお休み下さい。また明日参ります」素空はそう言うと、3人を連れて今度は表門に向かった。
仁王門の格子の間で素空は経を唱え、仁王像の様子を覗った。
素空が、仁啓と法垂に問い掛けた。「仁王様が1年前と御姿を変えられたことにお気付きでしたね?」
仁啓が言った。「金剛杵の位置がまたもずれているように思います」すると、法垂がアッと声を上げた。「素空様、吽形尊の足の開き方が大きくなっているようです。阿形尊の御顔も穏やかになっているようです。と言うことは、仁王様が
異変が起きたのは、2人がそれぞれに気付いたことを言うのを聞いて、悠才がまじまじと仁王像を眺めた時だった。阿形尊が首を傾げるように悠才を見遣り、吽形尊が眉をひそめて凝視したのだった。悠才は仰天して、門外に転げ出た。仁啓と法垂は、その様子を見て、1年前の守護神建立の時を思い出した。2人は、悠才のように驚きはしなかったが、先ほど拝観した時は微動だにしなかったことの意味を考えた。
法垂が、素空に尋ねた。「先ほどはこのように異変は起こらなかったのですが、如何したことでしょうか?素空様がおいでだから真の御姿を現したのでしょうか?」
法垂の言葉に、仁啓も頷きながら答えを待った。悠才だけが建立当時のできごとが分からず、ボーッとして聞いていた。
「仁王様は都に出向き、今しがた戻られたのでしょう。御心がここに御座せば真の御姿を現すこととなり、真贋を見極める目を持つ者には、容易に目にすることができるのです。左様、私達4人すべてが真贋を見極めることができるのです。これを機に皆様が、御仏像の見極めが更に容易にできることを願っています」素空が事もなげに言った。
仁啓が尋ねた。「それでは、真の御仏をかたどっていても容易に見えるものと、真贋が見分けにくいものがあると言うことでしょうか?」
素空が言った。「そもそも、御仏が御姿を現すためには、それなりの訳があるのです。同じ真の御姿を現す御仏像でも、病に苦しむ者が祈れば薬師如来様が現れ、生き抜く知恵を望む者が祈れば
悠才が尋ねた。「それでは何故、御本尊様の御姿が容易に見極められなかったのでしょうか?素空様がお作りになった真の御姿です」
素空はハッとした。問いに答えることは悠才が自分の運命に気付くきっかけになりかねないからだった。しかし、何時かは気付くことであれば、それが今であっても止むなし。素空は、悠才の心に
「悠才様、御仏は必要な時に、必要なお方に現れなさいます。また、悟りを得た者は常に御仏と共にあり、日常の中に御降臨を得るのです。心の清いお方には真の御姿が見え、真贋を容易に悟ることができましょう。どのような形であれ、真贋を悟ることは僧として大きな喜びなのです。その意味ではお3方とも真贋を見極める清い心をお持ちと言うことなのです。お喜びなさいませ」素空はここで言葉を切ったが、悠才は解せぬ思いを解こうと更に尋ねた。
素空はジッと目を閉じ、おもむろに口を開いた。「薬師如来像の真の御姿は、瑞覚大師のように、必要なお方にはハッキリと見えているのです。皆様方は真贋の見極めができるようになったことに喜びを感じることです。それは、御仏の御慈悲に感謝することに他ならないのです。仁啓様、法垂様に見えなかった御姿を、何故悠才様が感じ取れたかと申しますと、御仏の必要があったからであろうと推測するしかありません。仏師としての力量はお3方ともそれほどの差はありません。お3方共、相当の力量と真贋を見極める目をお持ちなのです。素直に受け入れなさいませ。これは御仏の御慈悲なのです」
悠才は、素空の言葉でやっとすべてが分かったような気がした。だが、黙して俯いたまま物思いに囚われているようだった。
仁啓と法垂は、訳の分からない中にも、不吉な予感を感じ取っていた。2人には、やがて悠才の身に何事か起こるような予感があり、嘗ての良円のように、やがて、死に向う予想へと進んで行った。素空はこれ以上の語り合いを無益と見て、格子の間で経を唱え始めた。すると阿形尊と吽形尊は動きだし、素空を覗き込んだ後、3人に目を移した。3人の仏師は、素空に倣って経を唱えながら、すべてを受け入れることが仏への感謝であることを決意した。
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